祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

切なさと生活

   介護の話をします、といっても自分の身の回りの、家の中の、半径3m圏内の話でしかありません。こういう解決もなく重いだけの話題はなかなか話に出すのに勇気が要るのですが、一時期介護で家がにっちもさっちものときに友人へそのことについて話したら、思ったよりもずっときちんと聞いてもらえたことがあり感謝しているのもあって、もしかしたら自分で思うよりはためらわなくていいのかな、とも思っています。あと、ヤングケアラーの記事を読んだりして、そもそもの環境や制度の面での不備はもちろんなんですけど特に若い子だと友達にもそういう話はしづらいっていう悩みは大きいなーと、まあ全然一石も投じられはしませんしそう思っているだけなんですけど。前置き終わり。


  『彼氏彼女の事情』というマンガで「年寄りと暮らすのはなにか切ない」みたいなセリフがあって、その一言を何度も何度も思い出す。本当によく言い表したもので、同居する祖父母が介護を必要とする状態になってしばらく経ついま、喜びもつらさもあるけれど一番多いのは「切なさ」だ。それも、きっかけは個々にあれどももっと全体としての、なんとなしの切なさ、みたいなもの。いままでの色々がゆっくりと失われていく姿を見ていなければならない。できないこと、分からないことが増えてもうそれが戻ってくることはない。それでも二人はそれなりに暮らしてはいるし、私だって悲観ばかりしているわけではないけれど、それとは別に、なんかこれは本質としてすごく切ない営みだな、と思うタイミングが多い。
  数年前から寝たきりになった父方の祖父と、身体は元気な祖母と、二人ともゆっくりと認知症が進んでいて、状況は刻々と変化し困りごとも日々変わる。都度、母と外部の様々なサービスの方々とで対応してきたけれど、長く先の見えない生活に疲弊は否めない。私は介護についてなにか言えるほどきちんと関わってなどいないのだけど、それでも何かにつけ考えてしまうことがたくさんある。
  最近、在宅での介護の限界がどこなのか分からないことが悩みの一因だと気付いた。ここから先はもう無理ってはっきり線が引けたならそこで決断できるかもしれないけれど、もっと頑張っている人もいるのに、まだできることはあるのに、「できない」って思うのはわがままではない?もう少し頑張れるのでは?と、自分に対して思ってしまう。特に、終わりまで自分の家で過ごしたいと言う祖父に対し、もうそれはこの状況では無理だと、家族の誰も言い出せずにいる。自分がもう少しやれば……、と思ったり、これ以上は無理だと思ったり、どうしてできないんだと自分で思ったり、心は乱れる。
  自責の念など持つべきではないし「つらいなら逃げてもいい」それは絶対そうなんだけど、別の面で、つらさの大元は老いや病であり誰も悪くないために憎む先もないことや、その選択によって私が(言葉にするのは難しくまた単に家族愛などというものでもないのだが、少なくとも)大切には思っている人の余生のありかたが変わってしまうこと、そういった、情の絡まりのようなものが自分を苦しめる。
  他人の話として現在の我が家の状況を聞いたなら、私は即「それはもう限界だよ、入れる施設探しなよ、罪悪感とか全然無くていいよ」みたいに答えると思う。実際そうなんだろうし、話を聞いてもらった友人にも似たアドバイスをもらった。近い将来そうなるだろうとも思う。それでも、罪悪感が消えたりすっきりきっぱり決断できたりなんてことはないだろう。他人事と自分の身とでは全然違うんだって改めて思い知らされた。情だけは、どうにも切ったり捨てたりできない。抱えて生きていくんだとして、やがて薄れゆくとしても、ああ人生地に足つけて歩くのって骨が折れますね、という感じがしている。