祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

国立市人権講座 2回目

国立市人権講座「どうして、私たちは見た目で判断してしまうのか ″綺麗″や″かっこいい″との向き合い方」第2回、「あなたを閉じこめる『ずるい言葉』〜自分らしく生きていく強さとは〜』、講師は早稲田大学文学学術院の森山至貴さん。本日オンライン受講してきました。

全3回のこの講座、前回の長田さんの講座で提示された「ルッキズム」という考え方について、今回は「社会学的な枠組みで見た差別論から考えるルッキズム」「ルッキズムは『差別』なのか」と、社会学的アプローチでさらに進めていくお話。さらにそこから、次回の西倉さんの講義での「見た目で判断することは差別の問題である」というテーマに繋がっていくらしい。3回通しての構成がはっきりしてきた。どこへ行き着くのか、楽しみ。

※前回同様、個人用の、印象に残った部分のまとめなので、レジュメや内容のまとめにはなっていないです。書き起こしも殴り書きメモからの復元なので細かい言い回しなど正確ではありません。何かあればご指摘ください。

ルッキズムは「差別」であるのか。
差別の社会学的定義に照らし合わせたとき、「差別である」と確かに断言することが難しいのではないか。それは、「見た目」が個人の好みの問題とされるから。間接差別の考え方を導入することで「見た目」と「差別」がつながりはするが、それでも「見た目」が直接差別されたことにはならない。しかし、本当にそうだろうか?「見た目」そのものへの差別は本当に存在しないのか?
→見る側/見られる側、ジャッジする側/ジャッジされる側、選ぶ側/選ばれる側。本来は相互に立場が入れ替わりながら行われるのが自然だと思うのだけど、そうではなく、(特に前者に男性を、後者に女性を単純に当てはめた言説を多く見るなかで)立場が固定されると後者は逃げ場がなく、前者の気にいる見た目を選ぶ以外になくなってしまう。そして、選んだ見た目の責任は後者にあるとされる。
男性と女性以外でも(複層的でもあるだろうが)、就活での企業と就活生、学校での教師と生徒、みたいに相手にある程度権限があると固定されやすそうかな。しかし、ならばこそなぜこんなに男性が選ぶ側に立ちやすい(と私が実感している)のだろうか。うーん。
 

・講義中何度も言われていたのは、「モテ」や「愛され」ではなく、本来はマッチングの話なのだということ。相性や巡り合わせで決まるはずの出会いを、寡多を競い「モテる」人のほうがなにか資質に優れている、と捉えること自体がおかしい。
→モテと非モテに関わる言説はメディア、創作、インターネット、どこでも多く見るけれど、思春期にかけて刷り込まれる「モテる人、愛される人の方が人間として優れている」という観念はすごくつらいものだと思う。かといって、誰からも選ばれないけど自分は自分が好き、というような自尊心を健全に育めるかといわれると、それもまた難しい気もする。恋愛で選ばれる、という目標設定それ自体が間違いとは思わないけど、それ以外の方法でもアゲアゲになれるようにしておいた方がよさそう。
 

・褒められたいところと褒められたくないところは自由なはずなのに、容姿を褒められるように努力しろという強制がある。
→これは今回聞いたなかでも結構印象に残った部分。
見た目に気を使う自由があるなら、気を使わない自由も(清潔感などはまた別として)あるはずなのだけど、後者はなかなか無視されやすい。ナチュラルスタイルだね、みたいな別のおしゃれの文脈に回収されたりもする。おしゃれとは違うところにいたいという気持ちはなかなか尊重されることがない。

少し外れた話になるけど、例えば私がボーイッシュな格好を好んでいたとして、それはボーイッシュスタイルがそのとき流行っていたから、とは限らない。私が女性らしい服装を苦手とするからかもしれない。
例えば私が身体のラインを隠す服を好んでいたとして、それが今流行りのルーズなシルエットだから、ではないかもしれない。本当に、身体のラインを隠したいからかもしれない。
自分の元々の身体とどう付き合うかの微妙なやりとりが、自分自身のなかで行われている場合というのがあって、それは他人から見たら知らんがな、なのも分かるんだけど、自分のなかでは切実な部分がある。それを全部おしゃれの文脈で回収されると、違うんだけどなーと思う。もっというと、流行っている≒かわいい≒モテる、みたいな感じの図式がおしゃれの文脈に含まれているのを感じるからキツイのかも。このあたり、まだ自分でもうまく整理できていない。他人に理解してもらうには込み入り過ぎているし。 

今回、質疑応答がすごく盛り上がっていて、おお〜インタラクティブ〜と思った。会場、オンラインどちらでも、講師の方がバシバシ答えるけれど会話は丁寧に運ぶ感じだったので、講師と質問者の間でのやりとりが何往復も続き、そのおかげでひとつの質問から発展した気付きが多かった。また受講者同士の情報共有や、共感の意みたいなものも生まれやすく、また表出されやすかった。良い場でした。


◉悪口に対してその場では言い返せなかった、というモヤモヤについて
・会場にいた方からの提言(覚え書き):自分は、嫌なことを言われたら後からでも時間を見つけて相手に「あれは嫌だった」と伝える様にしている。その際、相手がそれによって考えを変える、といったことは相手次第なので過度に期待しない。自分の気持ちを伝える、という方に重点を置く。
→この発言、自分の中でかなりなるほど!となった。会場にいた方が場の空気に呼応して出してくれた発言で、後半部の「相手に期待しない」のところが特に、実践的だな、と。おそらく本当に普段の人間関係のなかで得られたものを提案して下さったのでは。

・人の悪口にその場で言い返せない、という悩みは多く聞く。その場で言い返せないということは、それだけ傷ついている、ということではないか。
→これも、かなりなるほど!だった。その場で言い返せなくてモヤモヤが残り続ける、というのは質疑応答でも、そして自分でも心当たりの多いパターン。特に見た目に関する話だと、講義内でも指摘されていたが、相手も見た目を直接あげつらうことはいけないと、そこは分かっているが故に、言われた側が一瞬「いま何言われた?」となるような、一見悪口とわからない様な形態で巧妙にこちらへ伝えられる悪意が多い。
そこで、言われた側が「その場で言い返せない自分が悪い」と悩むのではなく、「そもそも傷付けることを言う相手が悪いし、なにより自分は頭がフリーズするくらい傷ついた」と考えをくるっと変えてあげることは、すごく大切なアイディアじゃないかと思った。
そもそもショックを受けた人はそれを言葉にするのに時間がかかる場合もある。その場で言って反論ないから終わり、じゃなくてもっと言葉を待たなければいけない。まあ、待つつもりの人ならそんなことは言わないんだろうけど。
あと、これも質疑応答中に指摘があったけど、そもそも何か言われてショックを受けても言い返せない権力の構造のなかでそうした発言がなされたとしたら、それはハラスメント。

・言われて嫌なことにその場で言い返すのが難しいなら「え?」と何度か聞き返してみる、それだけでもいい
→正論と違い、理不尽な悪意ある物言いって、相手もそう自覚してるしロジックの後ろ盾があるわけではないから何回も繰り返して言えるものではない、と。即言い返せない勢にとっては、いざとなった時のお守り、あるいは護身用防具となりうる考え方ではないかと。

・上とも関連して、そもそも人の容姿を直接あげつらうような物言いはいくらなんでもだめでしょ、というようなモラルは多くの人がもっている。それでもなにか言いたい場合に、様々なレトリックが利用され、自分が悪者にならないような形で相手を傷付ける言葉が生み出される。これは「ずるい」。
→前回と今回で質疑応答を聞いていて、これは実感する。直接的でなく、嫌味や笑いに擬態して、相手を傷付ける言葉。前回の長田さんの講義と合わせて考えるなら、やはり、「自分で選んでいない」見た目に関して言われる言葉は、無防備でいるところにすごく刺さって抜けない治らない傷になってしまう。傷つける側にも、傷つく側にもなるべくならないように、それには考えることをやめちゃいけないな。

(講師の著書『あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』はこうした言葉への対処の仕方が根拠となる考え方とともに丁寧に書かれているので、それと合わせて考えるとさらにいいのかも)

・相手への批判を伝える際、オブラートに包むことも必要ではあるが、その場合、他のものまで批判対象に含まれていると思われかねない(「誤爆」と呼ばれてました)言葉選びはしない。
→他の質疑応答を聞いていても思ったこととして、講師の方にはおそらく、そのものずばりを批判しても大丈夫ならばその方がよいのだけど、という大前提があるように感じた。でも現実には、そんなの怖くてとても言えないとか、言ったとして言った方が不利益を被ったり、そもそも相手が怒り出して聞いてくれなかったり、色々ある。ありますよね……。その次善の策として「オブラート」などは登場するのかな。その場合でも、言葉をぼやかすことで他の属性へとばっちりの批判が向くのは違う、と。

※例えとして正しいか分からないけど、例えば、「あの人の苦労知らずみたいなとこが嫌」(そもそもこの指摘がなにって話だけど)と言いたいとして、仲間内何人かでいるときに悪口モードで「あの人いかにも愛されて育ってます、家族仲良しですって感じだよね〜」とか言ったとする。そうすると、それに笑顔で応じている仲間達の中でも(うちも家族は仲良しでそっち系の苦労はしたことないけどそう思われてるのかな……)と人知れず萎縮する人がいるかもしれない。これは「誤爆」にあたると思う。それよりは、苦労知らずでムカつくんじゃ!とはっきり言って、いやあなたが苦労してるのは凄く偉いけどだからって他人に向けるものじゃないんじゃ?みたいに誤解なく言葉で解きほぐせた方が多少良さそうな気がする。楽観的観測だけど。

◉「見る側/見られる側」の構造は崩せないのか、という質問に対して:
一般に、学生などと話していて一応のゴールとしてよく提示するのは、「今あなたは私をジャッジした」と相手に伝える、ということ。言葉を柔らかくしたりしてもいいけれど、相手にそのことを伝える意識だけ変えない。
多くの人は、「一方的にジャッジを下す」行為自体には罪悪感を持つため、ジャッジとわからない形でそれを行う。だからこそ、「今あなたがやったそれはジャッジです」と伝えるのが有効。
→まずこの質問が出たこと自体嬉しかった。あ〜それ聞きたいやつです!ってなった。ひとつひとつに悩み苦しむことと同時に、そこから一歩進んで、その苦しみの原因となってる構造を壊すこと、ひっくり返したりすることができないかって考えるのは、とても大切なことだと思っている。うまく言えないけど。それに対する答えも、実践的だと思った。これならできるかもしれない、と思えた。相手の罪悪感を引き出すこと。

以下は感想。
見た目に関する悪口を考えていて思うのだけど、相手も自分のやっていることに対して多少「悪」の意識はあって、でもそれを色々な理由付けで(相手のために言ってるんだ、とかこれくらい冗談で済むはず、とか)意識しない様にしていたり、あるいはその人にならそういうことを言っていいと思っていたり、なんらかそういう、罪悪感を超えさせたり無にさせるからくりがあるっぽい。でも、言われた方は例えば何年何十年経ってもそれを思い出したりするくらいの傷になることもある(私にもある)。明らかに、言う側と言われる側の背負うものが違いすぎる。この非対称さはおかしい。


講義中、「私のこの顔、このルックスで生きていくというようなことに対しての否定は見た目そのものへの差別じゃないか?」という問題提起があった。
見た目は本当に、その人がその人でいるためのアイデンティティの核みたいなところにある。一方で、ある種無防備に外界に晒された、内面の一番上皮みたいな感じもする。他人から見た自分のイメージを初めに形作るのは見た目だし、通りすがりの人からすら容易にジャッジされうる。だけどそこを批判されるとときに自分の内面の一番深いところまで切られたみたいな気持ちにもなる。弱点なのに誰からも簡単に攻撃される位置にあるので守りづらい。
前回の講義を聞いた時も自己決定のことを考えたけど、選べないからこそ必死に愛そうとしている自分の元々の見た目と、自分で選んで育ててきたセンスからなる装いと、どちらを否定されてもつらいのは当然のことだと思う。平気で流せるような日は来ない気がするし、来る必要も無い。
傷つけてしまったらきちんと謝ることと、傷つけられたら自分で手当てして相手にそれを伝えること、だろうか。当面は。


以上です。次回が本講座のもっとも核心なような感じがしていて、楽しみ。