祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

私の話

体験と伝聞からなる不正確な、つまり極個人的な文章であることを初めに書いておく。そう言い訳しておかなければ、当事者の数だけ違う経験を持つような話題について自分のことを書いていいのかわからなくて、結局書かないで終わりそうだから。実際、何度も書いては挫折してきた話だ。どうやっても不格好な、「私の話」にしかならない。

両親に障害があるというのは、正確に言うと身体障害があるというのはどの程度特殊な経験なのだろうか。それは私にどの程度影響を及ぼしているだろうか。自分で見積もるのは難しい。影響は、人との関わりのなか、大きく言えば社会と自分との関わりのなかでしか発見されない。そして障害者をめぐる言説にポジティブなものが多いとはとても言えない社会の中で、自分の根にあるものを再確認するときというのは大概気分の悪さとセットである。

父は四肢に緊張が不随意に出てしまうタイプで、歩き方がギクシャクしていたり急に背中に力が入ってしまったりする。母は左肘から下が動かない。とはいえ両親に障害があることでものすごく困ったという経験はこれまでのところ無い。それは、うちの親が自分の身の回りのことは自分でできる人たちだったので私がヤングケアラーと呼ばれる役割を果たす必要がなかったこと、両方の祖父母が必要であれば積極的に手助けをしていてくれたこと、目に見えて差別的な態度を投げてくるようなひとが大人にしろこどもにしろ殆ど身の周りにいなかったこと、そうしたいくつもの幸運がたまたま重なったからであって、だから逆に言えば私には語るべき経験など無いと思ってきた。障害のある身体で子育てしてきた私の親はともかくとして、私の方は大した苦労もしていないので。

大した苦労もしていない割に、この経験について書けば中身が無くても中身があるようなものが書けてしまいそうでそれも嫌だった。「両親に障害がある」とはそれだけで特殊なパッケージで、そこに自動で付いてくる「親を手伝ういい子」という見方に違和感を覚えるようになったのはいつ頃からだろうか。物心ついていないときからずっと地続きの話だから、自分でもどこが変化のタイミングだったか、というようなことをもううまく思い出せない。ただなんとなく、「よく手伝ってえらい」と言われれば「そういうものだろうか」とぼんやりと思い、「女の子産んでおいてよかったわね」(信じられない感覚だがこれを母に言う人は複数人いた)と言われると「男の子だったら手伝わないんだろうか」と思ったりした。まだ構造とか、言葉とか、そこまで考えないで過ごしていたこどものころの感覚。

小学生のころまでは、両親の事情を周囲に隠すことは特になかった。というよりクラス替えがある度に、授業参観などで片手が麻痺している母を見た同級生から「おまえのかーちゃんの手どうしたの!? あれなに!?」と聞かれ、毎回自分が聞いていた通りに「小さい頃高い熱出してそしたら手が固まっちゃったんだって」と答え、すると聞いてきたほうも悪気はなく好奇心だけなので「まじかよすっげー」みたいな反応をして、それで終わりだった。その頃はお互いにその程度のものだったから、嫌な思いもしたことはなく、私は両親の障害という事情は多少珍しくとも隠すようなことではないと思っていた。

中学生になって、あまり話したことのない同級生二人からある日突然「お父さん障害者なんだって?」と聞かれた。感覚が小学生のころから変わらないままだった私は(母もそうだけど)と思いながら、肯定した。二人は顔を見合わせてなにか面白そうに笑いながら、「この間お父さんあのお店の辺りで見たよ」と言って、歩き方こんなふうだったよ、とくねくねした身振りをして見せ、そのあとで父が店の前で奇行をしていた、と(具体的には言葉にしたくない、とにかくいわゆる「奇行」をしていたと言いたくて懸命に考えた、というような内容だった)言って、そこまで言うとこらえきれず笑いだして逃げるように走り去ってしまった。

その体験をどう捉えたらいいのか、こうして思い返して言葉にできるのはもう10年以上経っているからで、言われた後はそれこそ2年くらい、そもそも記憶に蓋をしてなるべく無かったこととして過ごしていたと思う。でもそのなかでうっすらと、彼女たちが「身体障害」と「知的障害」と「精神障害」を全部「障害者」として一緒くたに考えていたからあのような発言になったのだろう、ということは、当時の自分の知識と照らし合わせ理解した。彼女たちはおそらく父に会ったことは無いかあっても見かけた程度で、なにか別のルートで私の父の障害を知り、なにそれ面白いじゃん、となってちょっとからかってみた、ということなのだと思う。そして、彼女たちのなかにある障害者像というのが私に語ってみせたようなものだったのだろう。

彼女たちにそう言い逃げされて、何を言われたんだ今、というフリーズの後、中学生当時の私が初めに思ったのは、正直なところ「うちのお父さんはそんな馬鹿じゃない」だった。父は実際、障害のせいで咄嗟の発語や筆記がうまくいかず、そのせいで内面まで低く見積もられることが多かった(余談だが、数年前の選挙時に乱れた筆致での投票券の写真を載せ、こんな文字書くやつ日本人じゃないから不正投票だ、という主張をするツイートを見かけたとき私の脳裏によぎったのはふだんの振り絞るようにして字を書く父の姿だった)。しかし家族として過ごしてみれば、うちで一番頭が良くて物知りなのは父であったし私は父のそう言った側面を尊敬していた。だからなによりもまず、父の知的能力を馬鹿にされたということがとても悔しかった。そのあとで、彼女たちはもしかして障害にそれぞれ種類があることを知らないのか、と思った。次に、障害者なら何を言ってもいいと思ってああいう発言をしたのか、ほんのからかいの冗談に無知が重なりああなったのか、と納得がいった。それまでは正直、あるはずもないエピソードをなぜ私に言ってきたのか意図が分からなかったので、少なくとも理由が分かって混乱は落ち着いた。その時はただ自分を理不尽の被害者としか捉えていなかった。

この騒動を経て私は、障害者というだけでひどい言葉を投げられること、自分がそれにとても耐えられないことを知った。それまでは本当に温室にいたのだ。母が幼い頃も大人になってからも差別に苦しんだことを話には聞いていたが、自分の大切な人に対し突然侮辱をされたときの心臓に冷や水を掛けられたみたいな思いを実際に経験して初めて思い知るものがあった。結果的に私はものすごく警戒心が強くなった。誰がそういうことをしてくるか分からないから両親のことは隠し通そうと。

高校で出来た友人は本当に素敵な子たちで、私は時折、この子たちなら分かってくれるんじゃないか、聞いてほしい、と思った。でも結局誰にも言わなかった。
大学では、そうした事象に関心の高い友人を得て、差別をしないことをきちんと知識として学び考える人がいるのか、と思った。そうしたほんの2,3人には家のことを話した。話してみれば後の会話はそれまでよりスムーズになった。家族の話を多々するくらい親しい間柄で、それまではその家族について根幹の部分を誤魔化していたのだから当然だ。
一方で、それ以外の人には世間話のなかで、必要があれば「うちの親は身体が弱くて」というようなことを言って誤魔化していた。嘘だと分かっていて言うのだから言う度舌の上がざらざらするようだった。とはいえ誰彼構わず本当のことを言うことはとてもできなかった。というのも、普段の言動からは全く想像ができないひとが不意に障害者に対しては差別的なジョークを言ったりすることが何度もあったからだ。その度肝が冷えた。この分野に関しては安易に人を信用してはならないのだった。障害者に関するものは当事者やその近くにいる私のような人間がすぐ傍にいるとはまったく思わないで気軽に口にするひとも多いらしい。でも場に合わせて笑う自分も同罪だと思った。明らかに自分のバックボーンを裏切っていた。とはいえその場で自分の事情を明らかにする勇気もなかった。言っているほうに悪気はないのだ。中学生の時と同じで。

大学生になりさすがに物心も付き始めて考えるに、私だって差別につながる気持ちは持っていたのだ。中学生の時私は「父はそんな馬鹿じゃない」と悔しくて泣いたが、その時の私は父が「身体障害者」であることに、他の障害種別と比べて優越を少しでも覚えなかったか?「頭は普通なのに」と思うことの暴力性に気付いていなかった。当時の自分にそこまで求めても、とも思うが、とはいえだ。私も地続きの所にいる、ことを忘れたら終わる。当事者に近いからって差別しないわけじゃない。さらに言えば当事者同士でも差別感情やヒエラルキー意識のあることも、両親を通して知った障害者同士の人間関係の一側面だった。

同じく中学生のころ、ふと自分の結婚について考えてみて、あれ、と思った。私ってふつうの結婚できるのかな、と。きょうだいに障害者がいることが分かってまとまりかけていた結婚が破談になった、という話、それもまた、両親を通して聞いていた、障害者を取りまく状況の一つだった。そこからいけば、私も結婚は難しいのではないか。そもそも両親のことを知って相手がそれを受け入れてくれるか、の裏返しで私だって両親を受け入れない人と一緒になることはできないだろう。

それともう一つ気にかかることがあった。私がこどもを産んだら障害はこどもに遺伝するのか。これに関してはいくら考えても自分では答えが出ず母に尋ねた。母は、自分たちの障害は後天的なものだから遺伝はしない、と答えた。私はほっとして、ほっとしたことに自分でひどくショックを受けた。普段から両親、ひいては障害者への差別なんて絶対許さない、というような気持でいるのにその私は健常な子供を産むことを望み障害の遺伝を恐れるのか。この自己矛盾は当時の自分にとってとても利己的で、醜悪なものに思えた。母に、変なことを聞いてごめんなさい、障害が駄目とかそういうつもりではない、というような、混乱した内面のままの言葉を発したら、母は「誰だって自分の子には健康で生まれてほしいに決まっているんだから気にすることは無い」となんでもないことのように答えてくれて、それが少し救いになった。

けれど根本的にはその時感じたものは解決していない。自分の中にもある差別。自分の子を望むときに健康を願う気持ちと、では自分はそうでない子を愛せないのか、という恐怖のような気持ち。今のところ子を持つ予定はないがそれとは全く別に、考えずにはいられない。「よい」ものを望む気持ちは、きっとそのほうがこの社会を生きてゆきやすいからで、この幸せを願うなら当然で、否定されるべき気持ちでは全くない。むしろ、疑われなければならないのは「よい」の基準と「よい」でないと生きづらい世の中の方だ。けれど現実には、世の中はもし変えられるとしても、ゆっくりとしか変わらない。

障害者を親に持つ人、というのは(私の)目に見えていないだけで私の他にももっといるはずで、ここで例に挙げることが適切か分からないけれど、「CODA」であるとか「きょうだい児」という言葉を見ると、ふと「私達は何だろう」と思う。名前がすべてではないし、似た境遇どうしで話をしてみたとして経験として重なる部分ばかりじゃないだろうけど、でも時々思う。

冒頭に書いた、「そして障害者をめぐる言説にポジティブなものが多いとはとても言えない社会の中で、自分の根にあるものを再確認するときというのは大概気分の悪さとセットである。」という部分。インターネット上では障害者に対して、「存在するべきでない」に等しい言葉を見ることも稀ではない。ネットでは匿名で人の本音が露出するというのなら、それも本音なのだろうか。本音だとして、もう存在する人たちはどうしたらいいのだろう。存在する人たちから生まれた私は?「生まれないほうがよかった」という言葉が届いてしまう位置にいる私はどうしたらいいのか。

固有の経験として、自分のアイデンティティに無視できないレベルであるものを、私は今のところ妹としか共有できない。他人からすれば大した話ではないけれど、私だって四六時中こんなこと考えてるわけではないけれど、でも、無しにはできない話なのだ。今だってまだ答えは出ないし混乱している。