祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

「女(じぶん)の体をゆるすまで」を読んで

ぺス山ポピー『女(じぶん)の体をゆるすまで』*1を読んで思ったことを書きます。単行本が一昨日届いたので。後にも書くように自分個人の読書体験の話なので、あまり感想や紹介の体は為さないです。

2017年の9月、つまり今から4年前、私はこのブログに以下のような文章を書いていた。

性自認に違和はない。自分が女性であることを認めている。それとは別の面で、自分に女らしさを求めないでほしいと思っている。
「女らしさ」にほんとうの意味でよいイメージを抱けていないのかもしれない、と考えて、わたしはわたしに内面化されたミソジニーの存在を認めざるを得なくなってしまった。普段どれだけ美しい理想を語っていても、心の底では女性としての自分を蔑み、嫌悪している、ことに気づいてしまった。」

抵抗 - 祈りにも似て

私はこの、自分の中にある、自分に向けているから表面化しないだけではっきりと存在する差別意識を、4年経った今でもきっぱり捨てきれたようには思わない。自分の身体が嫌いな気持ちと女性としての自分が嫌いな気持ち、その先にあるのはやはり女そのものへの嫌悪なのではないかと思わずにいられない。自分だけに向けているからいいのかといえば、決してそういう話ではない。

『女(じぶん)の体をゆるすまで』は、性別違和を持つ作者・ぺス山ポピーさんが、自身の受けたセクシュアルハラスメントとそれによる後遺症、それらから「助かる」ために、自身が被害にあったセクハラについて、またこどもの頃からあった性別への違和感とそれに関わる友人とのエピソード、セクハラ加害者との対話、などを漫画にしていくこと、また別面では様々な専門家に頼ること、を通して、徐々に自身を「ゆるすまで」を描いた作品だ。作中、過去を参照しながらも時間は徐々に進む。時が進むにつれ社会も作者自身も変化していく。絡まり合った「女の体」への認識を解く過程として、また変化の記録として、色々な読み方をすることができる。私は、私の救われた話としてこれを書いているので、あまりちゃんとした感想にはならないと思う。読む人ごとに違う印象になると思うので、気になっている方はぜひ読んでほしいと前置きしておく。

私は性自認に疑いを持ったことがない。自分が女であることを認めている。つまり作中ぺス山さんが使用している呼称としての、性別違和やトランスジェンダーXジェンダーといったものには当てはまらない。
それでも私はこの作品に救われたと思った。『女(じぶん)の体をゆるすまで』というタイトル、また例えば「私は自分の体をとても憎んでいて、人間関係もうまくいかない。つまり、私は自分とも他人ともうまくいっていないんです。だから、仲良くしたい」という台詞。自分の体を嫌悪している、けれど、仲良くしたい、ゆるしたい、そういう気持ちをこんなにきちんと表してくれた作品を私は他に知らない。

ぺス山さんの前作『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』本編*2及び番外編*3 (以下『ボコ恋』)でも、同じテーマが今作とは別の経験を通して描かれている部分がある。
ぺス山さんは作中ある男の人と付き合う。最近のインタビュー*4では、「でもその相手から、めちゃくちゃ差別されました。それで初めて『あ、好きな相手でも差別するんだ』と思った。」と、「差別」という言葉を使ってその時二人の間で起きていたことを語っている。
その「差別」とは、ぺス山さんに自身の理想とする女性の規範、とりわけ「女」はこういうものだという蔑視から成り立つ女らしさの規範を押し付ける、という類のもので、詳しくは『ボコ恋』番外編に描かれている。付き合っていた当時のぺス山さんはそうした彼の接し方に対し「『どうせ女』なんだし仕方ない こうされて当たり前なのだ」と自身で納得していた、という。そして後に、この「どうせ女」という考えについて、「私自身が強烈に女性を差別していたのではないだろうか だからこそ彼の態度に納得してた」と振り返る。「自分の身体に違和があったとしても 自分の身体を差別していいわけじゃない」とも。

ぺス山さんは、物心ついた時からずっと続く性別違和があり、さらにセクハラによって大きな被害を受けている。作中繰り返される内心の叫びとしての「なんで女に生まれてきた」という言葉のように、自身の性別と体を嫌悪するに至って当然といえるだけの経験をしてきている。
一方で『ボコ恋』番外編では自分自身の中にある女性への差別意識にはっきりと言及している。本作でもその問題意識は変わっていない。ぺス山さんは被害者で、それはどうあっても揺るがされない事実なのだが、一方で自身の加害者性についても強く意識を向けている。そして本作でぺス山さんは、漫画を描くという行為によって、担当編集の方やこれまで関わってきた人たちとの対話を重ねていくという手法を取っている。実際作中に、誰に対してもセクハラのことを話せなかったぺス山さんが、漫画なら表現できる、という実感を得る印象的なシーンがある。ぺス山さんにとって漫画は語りなのだと思った。自身の経験の語り。

これは私の話になるが、自分に向けた憎悪や差別は、表に出ることが少ないために自分で気が付きにくい。人間関係のなか、ふとした拍子に相手を傷つけてそこにある自分の認知の歪みのようなものに気付く、というのは、あくまで誰かと深く関わっていく中で起こることだ。自分に対しての憎悪は誰に指摘を受けるでもなくただずっと自分の中にあって、しかも原因は自分がそう生まれたことにあると思っているからどうにもならない。どうにもならないことを他人に話しても理解も解決も得られないだろうと思っているから黙り続ける。そうして、自分のような人なんてこの世にいないんじゃないか、そんな思い上がりのようなことすら考える。でも、本当は誰かと話したい。そうしたぐるぐるを経て、2017年の私は冒頭のようなブログをわざわざ書き、自分の現在を言葉にしたのだと思う。自分の中にある、自身の身体への嫌悪と差別意識との結びつきという、自分固有の経験が結局何なのか、確かめたかったように思う。

だからこそ、ぺス山さんが『ボコ恋』そして『女(じぶん)の体をゆるすまで』を描いてくれたことは、私にとって救いとなった。ぺス山さんの個人的な経験から、私はいくつもの声を聞くことができる。その声に私は安堵する。似ているとか重なるとか、共感とは少し違う気がする。ただ境遇は違うけれども、自分は一人ではないと思うのだ。ぺス山さんの作品を読むまでは、私はこの問題に関してそんなふうに思ったことは無かった。
自分が自分をゆるす日が来るのか、まだ私には分からない。私の問題は私の問題としてあるから。いまは、この作品が届くべき人の所へ届いてほしいと思う。

*1:ぺス山ポピー『女(じぶん)の体をゆるすまで』上・下、小学館、2021年 https://yawaspi.com/yurusumade/
※タイトルは「女」と書いて「じぶん」と読むルビが振られています

*2:ぺス山ポピー『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』全二巻、新潮社、2018年

*3:『ボコ恋』番外編については単行本未収録、連載していたくらげバンチ公式サイト(https://kuragebunch.com/episode/10834108156703394636)で読むことができます

*4:

「愛する誰かがいなきゃ救われないなんて、そんな残酷な話がありますか」 セクハラ事件からジェンダーの揺らぎに向き合う漫画『女の体をゆるすまで』作者インタビュー(1/3 ページ) - ねとらぼ