祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

『幕が上がる』感想前編

  なんで演劇やってるの? もし現役時代の自分がこの質問を投げかけられたらどう答えただろう。

  演劇部は、そして部活での演劇は、条件が重なれば、さしたる覚悟を持ち合わせずとも入部できるしそのままなんとなく卒業まで続けることもできる。演劇は、セリフをしゃべる人間さえいれば成立するなんてよく言われるけれど、だからこそ厄介なんだと思う。完成度を度外視すれば演劇部で演劇するのは簡単だ。台本を読んで、動いてみて、演じることが楽しくなって、そのままなんとなく演劇し続けて、卒業した。
  同時に、地区大会や上の大会、どこでも、眩しく燃え尽きてしまいそうなほど今しかできない演劇をしてる人たちをたくさん見た。役者としての中西さんやユッコも、脚本演出に優れた高橋さんも、やがて演劇に一生を捧げる吉岡先生もそこにはいて、私のような人もこの人たちも同じ「高校演劇」のひとくくりで勝負してるのだから変な世界だ、と思っていたのを覚えている。

   演劇はどうやったって表現であることからは逃げられない。だから、どれだけ適当な理由で始めたとしても、きちんと向き合った時点で「なぜその公演をやるのか」つまり「その劇で何を伝えたいのか」、この問いにあたることになる。もちろん、私自身がそうしていたように、ただ楽しいだけのまま終わることもできるけれど、それはそれで結局「部活として楽しい」を公演全体のメッセージとして発しているんだよなあと思う。「なんで演劇やってるの?」この問いから逃げたまま、本気で演劇することはたぶん、不可能だ。

   今の私ならばそんなふうに、答えにはならないけれど自分の考えを言葉にできる。けれど現役当時はそこまで考えてはいなかったし気づきたくもなかった。もし現役部員のころ誰かにガチトーンで「なんで演劇やってるの」一歩踏み込んで「本気で自分の全部をかけて表現したいことなんてあなたにあるの」と問われたら、自分の空っぽさから逃れられず、そのまま部活を辞めてしまったかもしれない。

  しかしながら、そんな会話を交わす人と出会うことはなくて、ただ目の前のことに必死でいたら私の三年間は終わっていた。演劇が恐ろしく底の深いもので自分はその淵からなかを覗いていたにすぎなかったと本当に気付いたのは卒業したあと、高校演劇の渦から一抜けた、したあとだった。
 

  ここまでは私の、ありふれた思い出話。

 

  映画『幕が上がる』では二回、主人公さおりへ「なんで演劇やってるの」の問いが投げかけられる。どちらも印象的なやりとりだ。

 一度目は、元・学生演劇の女王と判明した美術教師、吉岡先生にさおりが演劇部の顧問を頼むシーン。以下、さおりと先生の会話(聞き書き)。
「分からないんです」
「なにが?」
「どうしていいのか」
「なにを」
「なにもかも」
「じゃあ、なんでやってんの?演劇」
「え?」
「やめればいいのに、それなら」
「、でも……なんていうか、……でも」

 二度目は、大会用の脚本を任され思いつめたさおりが、偶然会った演劇強豪校からの転校生・中西さんに相談するシーン。
「どうやって書くんですか?台本って。全国に行こうとかって言うんです、先生が。なんか合宿やろうって言いだすし。しかも東京で。東京って!なんか展開が怒涛っていうか、こんなはずじゃなかったっていうか。」
「高橋さんって、なんで演劇やってるんですか?」
「それ吉岡先生にも言われた、なんでか。」

二度とも、本気で演劇をやっていて、いまなお情熱を捨てきっていない。そんな人からのまっすぐな問いかけだ。

 

 映画序盤、東京の大学への進学を控えた先輩が、上京後の夢をさおりに明るく話す場面がある。
「やっぱりやめられないんだ、演劇。内緒ね、親にも言ってないから。東京で、プロのオーディション受けて、実力試して、経験積んで、最終的には、自分の劇団を作る。そこで作家をやるのが私の目標。だって、他じゃ味わえないからさ、あんな感覚。自分の世界が、目の前でできあがっていくの。それを、お客さんと一緒に見てる自分を想像するとさ、たまらないよね!頑張らないと!」 
それに対しさおりは、口には出さずモノローグでこう返す。
「ごめんなさい、先輩。私はこの時、少し別のことを考えていました。将来の目標、自分のイメージする世界、驚くほど浮かんでこないんです。私の世界はどこにあるんでしょう。」
 私の世界はどこにあるんでしょう。表したいことも自分のことも、なにもかもわからないのに、なんで私は演劇をやってるんでしょう?

 さおりのそんな思いは、演劇部が新入生オリエンテーションで公演を打つ場面で、自分たちの劇に全く集中していない客席の生徒たちを見てついに「何で演劇をやっているのか」がまったく分からないところまで至ったのだと思う。衣装と装置があって、役者がセリフを言って、確かに劇は成立している。でもみんな舞台の前を素通りしていく。ユッコはさおり曰くの「女優」なので、客席が冷え切っているのを感じ取ったとしても堂々とロミオをやりきることができる。けれど脚本の翻案と役者を兼任したであろうさおりは、元々の気質もあって、そうはいかなかった。誰にも顧みられない舞台、けれどそれは当然のことだ。この劇には何もないのだから。自分は空っぽなのだから。舞台の上で感じ取る断絶は、一瞬であってもあまりに深い。

 

 その断絶から時がたち、先に挙げた二度の質問を経て、映画中盤、中西さんの問いかけから少しあと、二人で演劇の地区大会を見に行った帰りの駅のホーム。ここでさおりは中西さんに、自分の言葉でその質問に答える。
「始めた理由はたいしてない。でも、やめる理由はもっとない。私はたぶん、ううん、絶対、最後までやり通す、演劇部。」
と言う。なんとなくで始めたから何もわからないけれど、楽しいことは分かるし、演劇を通して人と話せる。演劇ってひとりじゃできない。と、さおりは訥々と、自分のなかの考えを一つずつ丁寧に言葉にしていく。

  映画全体を通してみてもとても重要なシーンなのだけど、初見時には個人的な思いがあふれすぎてとても冷静には見られなかった。
「なんで演劇やってるの?」
 かつては強豪校で全国を目指していて、自身を際まで追い詰めるほどに悩んで、いまだって演劇への思いを捨てきれずにいる中西さん。そんなふうにして演劇にすべてをかけて取り組んでいた人に、この問いをかけられたさおりが、ごまかしもせず卑屈にもならず、自分の言葉でこの問いに答えられるのは、それだけいまの彼女が演劇に真摯に向き合っているからだ。
「あー、演劇って一人じゃできないんだねーって、うん、そういうことだと思う。」
これがいまのさおりが演劇を続ける理由、さおりの核。

「宇宙でたったひとりだよ」と泣き出しそうな人の隣に立ってそっと「でもここにいるのはふたりだよ」と伝えるために、さおりは演劇をする。

 冒頭で、なにもわからない、と泣きそうな顔をしていたさおりが、どうやってこの答えにたどり着くのか。『幕が上がる』の前半は、その過程を静かに丁寧に描く。隠し玉も変化球もなしに、脚本演出と役者の力で演劇部を立ち上げなおす、地に足のついた奇跡の描写だ。そうしてさおりが言葉にした答え。なんてやさしく、うつくしく、さびしい言葉。「でも、ここにいるのはふたりだよ。」さおりのなかにある、やさしく、うつくしく、さびしい世界。その風景を見るため、さおりは『銀河鉄道の夜』をもとにした脚本を書く。
ここまでの描写のすばらしさで、初見時はもはやこの時点で号泣していたなあ。友人が隣に座っていたから、心の中でだけど。

後半へ続く。

 

※いろいろ考えるにあたってたぶん参考になっている高校演劇関連ふたつ。なんなら『幕が上がる』の背中合わせ、裏面と思っている作品たち。

香川県立観音寺第一高等学校 2014年度全国大会出場作品 『問題のない私たち
http://www.kagawa-edu.jp/kanich01/index.php/engekiblog
こちらのブログの「台本置き場」カテゴリから脚本がPDFで公開されています(ありがたい)。

・『演劇部五分前』百名哲
http://www.amazon.co.jp/演劇部5分前-1巻-BEAM-COMIX-百名哲/dp/4047262749
(絵柄は人を選ぶけど)演劇部のある一側面をめちゃめちゃリアルに描いていて、作者は何者!?とずっと思っている。絶版なりかけらしいけどはやってほしい……。