祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

王の不在に寄せて

  祖父の介護計画書の「生活の目標」には、「手伝ってもらって家での暮らしを続けたい。」のあとにいつも「妻は自分が守る。」と書いてあった。それを見かけるたびに、砂利を噛んだような居心地悪さを感じた。寝たきりで、自分ではほとんど何もできないのに暮らしへのこだわりは強くて、ベッドの上の王のようだった祖父。他に人がいない時には同じ部屋で暮らす祖母へ用を言いつけることも多かったが、既に認知症の程度が進んだ祖母にとって祖父の言うことは難しく、ふたり喧嘩のようになってその大声に家族が飛んで様子を見に行くことも度々あった。寝ている祖母を些細なことで起こして寝不足にさせたり、うまくできない彼女に怒ったり、そうした態度を見ていたからなにが「妻は自分で守る」なのか、自分では何もできない上に祖母を困らせてばかりなのに、と思うことが多かった。 
  祖母は自分の話を多くしないけれど、祖父の家へ嫁いできて、祖父方の親戚たちと同居しながらこどもを育て、そうしたなかで家の軋轢にずいぶん苦労したような話は聞くともなしに聞いていた。祖父は気のいい人で情にあつい反面そうしていいと自分で判断した人間には話を聞かず激昂して相手を封じるようなところがあった。そして私の見る限り、「嫁」であるところの祖母や母はその対象で、「息子」である父はそうではなく、そして「孫」の私と妹は、なんだか分類に困っているような感じだった。私と妹の前でも癇癪は起こすけれど、一応話は聞いてくれるし、そのうちに困ったように笑いながらなんとか納めてくれることが多かった。「ふたりに言われてはかなわない」というような斜めに下がった眉を何度も見た。あの表情は忘れられない。
  祖父母は我が家との二世帯住宅の片方にふたりで暮らしていた。祖母に認知症の症状が出てからは祖父が祖母の世話をするようになり、そこにヘルパーさんや母が手助けに入る形で介護はスタートしたのだった。それからしばらくして祖父が突然寝たきりになってしまい、頼んでいた介護サービスは祖父中心になり、祖父と祖母の世話する-されるの関係も逆転した。そういう順番でことが運んだから、祖父は自分は身体は動かないけれど頭はしっかりしているわけで自分が家の指揮を取らねばならない、何より病のなかにある祖母を自分が守らないといけない、そう思っていたのだと思う。
  老老介護というけれどまさにそれで、ふたりは、身体はまだ動くけれど言われたことが分からない祖母と、身体は動かないけれど指示は出せる祖父とで、不完全に凹凸が合致してしまっていて、目を離すとふたりでとんでもないことをしていそうな危うさがあった。何もしないと決めてしまって全部こちらへ任せてくれたならいっそ大変でも安心だったかもしれないけれど、ふたりには自分のことは自分でなんとかしたいプライドがあったし、そうやって突っ張りあって引っ張りあってなんとかふたりで立っているような、そういう姿を何年か見てきた。


  春先に突然祖父が亡くなってからずっと、祖母はひとりで立っていたのではないのだと、祖父の不在を思い知らされ続けている。
隣のベッドで寝ているだけ、ただそれだけ。時折呼びつけたり、うまくできないと怒鳴ったり、ひとつひとつ見ればまるでマイナスなことばかりだし、もう祖母も歳なのにそんなことしないでよと何度も思った。でも、そうやって同じ部屋にいつもいて、たまに会話して、緊張や苛立ちであってもやりとりしあって、そういう存在は祖母にとって必要だったのだ。ある面から見れば危なっかしくてやめてほしいことでしかなかったけど、世話する相手がいるってことは祖母にとって大切だった。
  大往生、と皆に言われる祖父の死を今更どうこう悔やむことはできないのだけど、こうなる前にもっとふたりの関係の機微に気付けたらよかった、とは思う。分かっているつもりでも分かっていないことだらけだった。というか、本当のところはふたりにしかわからない、ということを何度も腹の底から理解しなおしている。何十年も連れ添って、いいことも悪いこともあり尽くして、歳をとって、最後に見えているもの。一回の人生をまだ浅いとこまでしかきていない私に分かるわけないのに、妙に聡く見透かし把握したつもりでいた自分を恥じる。分かったつもりでいてしまったとこがあるなあ、と、祖父の写真を大切だと言って何度も飾ったりしまったりしている祖母を見てなんとなく、分かってなかったなあ、と思い直す毎日だ。