祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

国立市公民館人権講座「どうして、私たちは見た目で判断してしまうのか」3回目 感想

国立市人権講座「どうして、私たちは見た目で判断してしまうのか」、講師は和歌山大学西倉実季さん。今日午後、オンライン受講してきました。全3回の最終回、しかもいつもより時間が長いし最後のほうにはワークショップもあるということで結構緊張したのですが、始まってからはあっという間でした、面白かった!

(※個人的に印象に残った部分のまとめなので、全体のきちんとした要約などでは全くありません。書き起こしも殴り書きのメモから復元しているので細かい言い回しなど正確ではありません。一応、講義で示されたことを先に書き、→で自分なりの解釈というか、かみ砕きを試みています。何か問題などあればぜひご指摘ください) 

ルッキズムを巡っては、「何をどう問題にするか」の合意がない状態。そもそもルッキズムをテーマとした研究は国内でまだほぼ行われておらず、研究分野として始まりの発展途上。ゆえに、今回の全3回の講座内容も、各回の内容や解釈が完全に重なったり一致することはないし、聴講者のほうでそうさせることもない。そういう分野の話であることを念頭に、ぜひ、話のなかで自分にとって響いたことを持ち帰って各人の人間関係などで使ってもらえれば、とのこと。
→これを講義の序盤で言われたので、聞く側として体勢を整えやすかった。実際全3回の講義は同じ立方体をいろいろな角度から見ているみたいに、聞いていての印象も違ったしもっと具体的には用語や概念の整理がややこしい部分もあった。それは、ルッキズム自体がいま混乱のなかにある概念で、ひとつひとつへの解き明かしは今後行われていく途上だからなのか、というすとんとした理解があった。また、市民講座という性質からなのか、全3回を通して「どうしたら私たちはもっと傷つけたり傷つけられたりせずに生きてゆけるか」というような、ギフトとしての知識を手渡されている感覚だった。

・「ルッキズム」と美の偏り、そして差別
ルッキズムとは学術研究において「外見にもとづく偏見・差別」などと定義される。ルッキズムでの偏見・差別のもととなる「外見」、もっといえば「美」は社会的構築物である。「美しい」とされる外見は多くの社会的カテゴリーと密接に関わっている(人種やジェンダー、年齢など)。そしてこの意味において、ルッキズムと他の差別は重なる。性差別、人種差別、年齢差別、障害差別 etc.
→ここが今回聞いていて一番興奮した。興奮のまま赤ペンで(自分の感想は赤でメモって区別していたので)書き殴ったことをそのまま書き写す。
「何が美しいとされるか、を社会が決めるなら、その社会にある差別を美の定義は映し出してしまう」
ルッキズムが他の差別を内包したまま具体的な差別を現実に現す(就業差別とか)なら、それは目に見えにくいかたちでの差別の固定になってずっと続いてしまうのでは」
「でもルッキズムが個人の問題にされてしまうなら、それ単体で批判したり規制したりするのが難しい。他の差別の隠れ蓑にされているのでは?」 

ルッキズムがもっとも顕著に現れるのは職場なのだそうだ。今回レジュメで紹介された事例も就業や職種選択に関するものが多かった。そこに先に挙げたような様々な差別が入りこむということは、経済格差や貧困、つまりマイノリティにとっての経済状況の悪化を意味するはずで、それが固定されてしまってはならない。そのはずなのに、外見は個人の問題だから、といって巧妙に、外見を用いて特定の属性の人々を優遇し、または排除する。

 ここにきて、ルッキズムは差別だ、という理屈が頭のなかで完全に繋がった。前2回の講義を通して保留にされてきた答え。ルッキズムは、意識/無意識を問わず、私たちの中にある「美」のイメージの偏りを通して、現実にある属性の人々を排除させる。これは差別だ。

 美しい人の「美」を見せてもらうこと。私がメイクによってより好きな自分に近づくこと。友達の新しい髪型を褒めること。こうした、見た目に関する何気ないひとつひとつはルッキズムではない。コミュニケーションには注意が必要とはいえ。ただ、美の観念を硬直させてアップデートせずにいるならば、私もそのうち加害者になるだろう。

第1回の長田さんの講義を思い出す。第3回の地点から思い返しても実践的だな、と思う。「美の再解釈を行うこと。いろいろな美にふれて、なにを美とするか、幅を広げ立体的に複雑に捉えていくようにすること」。それは実践的な訓練として意識していくべきこと。

・個人的な対処
ルッキズムは社会に厳然としてある。そして社会はすぐには変わらない。だから、おしゃれはルッキズム社会を生き延びていくための「処世術」のひとつ。処世術には限界もあって、見た目を変えたり気にしないようにしてもルッキズムは解決しないどころかむしろ現存の美規範への強化、加担とも思えるけれど、社会が変わるまでは変わらないままの社会を生きないといけない。長期的な視点で社会を変えようと考えることと、短期的に自分が処世すること。
ルッキズムにどう対処していくか、をいくつか挙げられていたなかで印象的だったのがここの部分。現実に生きる私達は、インフルエンサーじゃないわけだし、すぐには世の中を変えられない。そのなかで、変わらない世の中を生き延びないといけない。焦ってはいけない。そしてゆっくりとでも世の中を変えていかないといけない。「メイクやダイエットや整形はルッキズムの強化、加担である」というのは、このテーマについて考えるときについて回ることで、現在の美の規範にそぐう自分になりたいという願いは罪か?と思う人も中にはいるのだと思う。現在の美が好きでそうありたいっていう個人の好みや、好きよりもっと切実にその規範に沿うことで活路を見出したいって思いもあるはずで、そういうものによって私達は実際に生き延びうるのだから、否定なんてできない。

第1回の感想で、私はざっくりとこんなことを書いていた。
「『社会が変わるには時間がかかる』というようなことを長田さんは言っていたように思う、ので、クソなものはクソとしてクソだなって言いながら、ちゃんと自分のせいじゃないものまで背負わされないようにしないといけないし、その意味でも『ルッキズム』という言葉が生み出され、検討される意義はある。」
内容が呼応していると思う。個人では、できることに限りはあるけれど、考えて考えて、あとは逃げたりして、生き延びることなんだと思う。抑圧だらけの世の中を。

ルッキズムの作動のあり方を見極める
社会のなかでルッキズムがどのように現実にあらわされているか。メディアは狡猾に、耳障りの良い言葉で問題を隠す。
「その事象は誰を排除しているか」

以降は感想です。

第1回、セルフケアやおしゃれといった身近な「美容」をテーマに、「美」や「美意識」との付き合い方に関して実践的な方策を多く伝授された長田さんの講義。
第2回、社会学的枠組みでみた差別論から、ルッキズムは、つまり「見た目そのもの」への差別は存在するのではないか?と問いかけた上で、またも実践的な方策として「ずるい言葉」への向き合い方やずるさの見極め方をお炊き上げのなか教えてもらった森山さんの講義。
第3回、ルッキズムは確かに差別の問題であると学術的に展開し、見えていなかった多くのものを明らかにし、解消が難しくとも今後どのように付き合っていけばいいか針路を示してくれた西倉さんの講義。

全3回を通して、自分自身、被害者でも加害者でもあったし、今後だって成りうるということや、社会構造を見るようにしないと自分の話で終わってしまうこと、でも同時に自分が何より自分を大事にして生き延びなきゃ、みたいなことを考えていたような気がする。なるべく、いろんなものに美を見いだせるようになりたいな。それは、なんていうかあらゆるものをポジティブに受け止めよう!みたいな根暗の私にとって無理のあるアイディアではなくてもっとこう、他人の美を幅広く受け止められるようになりたい、みたいな。節操無しでも良い。そして、隠されているもの、無かったことにされているもの、そういうものに、できれば気が付きたい。そんな当面の目標。

あと、今回の企画は(講師の方も仰られていたが)ルッキズムという新しいテーマを全3回、しかもきちんと回ごとに話が深度を増して進むよう設計されており企画された方はすごい……と思っていたのですが、今回の講義の最後に公民館の担当の方がされていた挨拶がはからずも今回の企画意図の話で、その言葉がとても好きだったので、不正確な走り書きからで恐縮ですが、引用させてもらって終わりたいと思います。たぶん文意はあっていると思う……。とても良い締めだったんです。 

「今回の人権講座はルッキズムという身近な差別と向き合うことで、社会はすぐに変わらなくとも、自分も差別に加担しうるということや、でも他人の痛みに手を差し伸べられるということを考えていただきたく企画しました。また、身近なテーマからさらに差別について考えてゆくことで、さらに他の苦しみへと気付くこともできるのではないでしょうか」