祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

国立市公民館人権講座『どうして私たちは見た目で判断してしまうのか』1回目 感想

国立市公民館で行われた、

〈人権講座〉『どうして私たちは見た目で判断してしまうのか』“綺麗”や“かっこいい”との向き合い方 

というのを受講してきました(オンラインです)。

第一回は講師 長田 杏奈さん(美容ライター)。

「美容とルッキズム 〜生きてるだけで美しい〜」という題がついていました。(配布資料より)


オンライン受講、会場の方も講師の方も色々やり方が違って手間も多いでしょうに、実施してくださってありがとうございます、と思いながらの参加でした。だって、家にいるだけで講師の長田さんのお話も、そこから質疑応答も、全部聞けるんだよ……!こういう場自体本当に久しぶりで、楽しかったです。


テーマが「ルッキズム」ということで、長田さんの柔らかい語り口、質疑応答の空気感や公民館の担当者さんのご対応含め、なんとかこの掴みづらさのあるテーマを引き寄せて、みんなで考えよう、そんな感じのする良い場だったと思います。質疑応答になって驚いたけど、年齢層も広かったような。参加するまでは、というか質疑応答になるまではオンラインだと他にどんな参加者がいるかわからないんで尚更そう思いました。

この講座、全3回なのですが、第1回の今回は見た目、美容、そうした比較的入りやすいところから始めていき、連続していって3回目には、気が付いたら遠くに来ていた!みたいにどっぷりはまるように構成されている気がします。そういう意味でも、長田さんの柔らかくゆるく、それでいて指摘すべき悪弊も今見えてる希望の兆しもちゃんと言う、みたいな、一緒に考えましょう、みたいな空気感の講義、とても楽しく聞くことができました。


なるべく内容やレジュメの写しにはならないように、質疑応答の詳細も避けるよう気を払いながら、感想など書いてみようと思います。(こういうの初めてなので、塩梅がわからない。問題があったら下げます!)

自分の書き殴りのメモをもとに書いているので、おそらく講師の方の言葉の書き起こしなどは全く正確ではないと思います……。


・「見た目問題」と「ルッキズム

前者と後者は似た位置にあるが違う言葉。前者を後者の意味で使うことは、「その言葉を生み出して問題提起に声を上げた人たちに対して、言葉を盗用することになる」という指摘には、本筋とは少し外れるけれどああなるほど、と思った。

同様のことは他の言葉でも起こっていると思う。「自分達は抑圧されている」「抑圧の構造のなかにいる」「踏みつけられている」と思っても、その状態を表す言葉がなければ声を上げられない。そうした切実な気持ちから生み出された言葉が、その切実さからは遠く離れた非当事者によって狡猾に意味をすり替えられて使われる事例。言葉を大切にしないやり方を見るたび、すべての地面が崩れるような気持ちになる。

(1/24 20:30 追記 読み返していて思ったのですが、分かりづらいかな?と思ったので。講座での指摘はあくまで「このふたつの似た言葉を同じ意味として使ってはならない」というものでした。狡猾に意味をすり替えられる事例……というのは、そこから連想された個人的な怒りの表明です。どちらにせよ、使う側に悪意なくとも盗用は起こりうるので注意が必要ですね)


・美の再解釈を行う

なにを美とするか、その幅を広げ、立体的に、複雑に捉えていくようにすること。

ここは、実践的訓練で培うことのできる分野でもあるというふうに話を聞いていて理解した。いわゆる「センス」「審美眼」だと生まれつきのもののように思えるが、そうではなく。


いろんな美しさが並び立つ、という状態については、卑近な例だが私はいろんなアイドルを節操なく好きになっているのでそのことを思った。

幼さの残る頃から大人になった今でも健全な美しさで笑顔が魅力のももクロ、際どい露出とパフォーマンスが色っぽいハロプロ、矛盾してるみたいだけど両方好き。強い見た目でこっちの美やファッションの概念の範疇をゴリゴリ広げてくるようなK-POPの作り込まれた世界観も大好き。違うけどみんな好き。


質疑応答でもあったけれど、「どちらを選ぶのが正しいのか迷っている」という問いに対して講師の長田さんが「むしろ揺れている状態の方が、無理にどちらに決めるものではないのでは」というように答えられていたが、それとも繋がるように思う。

美の多様性、というとき、どれかひとつを正道としたり、逆にそれにカウンターのものを置いたり、そういうものではないんだろう。

一つに決めてしまうとそれだけになってしまう。


・「真面目な人は自分のせいにしやすい」

これは講義中に何度も繰り返されていた。そうならないよう、適宜他人や社会のせいにしてもいいのだ、と。

私は、「自分を変えるほうが社会を変えるより楽」といったような意見にはあまり賛成できない(講義中長田さんがそう言われた訳ではないです、念のため)が、「社会が変わるには時間がかかる」(意訳だけどそのようなことを長田さんは言っていたように思う、たぶん…)ので、クソなものはクソとしてクソだなって言いながら、ちゃんと自分のせいじゃないものまで背負わないようにしないといけないというのはその通りだと思ったし、その意味でも「ルッキズム」という言葉が生み出され、検討される意義はある。


・自己決定について

話を聞きながら考えていたのは、自己決定の権利が当人の手の中にあるかどうか、が重要なんじゃないかということ。

講義中に、「他人に対して褒めているつもりでも傷付けているかもしれない、それを避けるため」として示された考え方がとても参考になった。あー、って声が出た。相手の外見を褒めるときには、一旦立ち止まってこう自省すべき、という提案。

「それは相手が選んだり、変えられることですか?」

例えば、肌の色、目の色、背の高さ、胸の大きさ。体型も、目に見えて痩せていたり太っていたりした場合、それは広い意味で、本人のコントロールがきかないものなのかもしれない。

ルッキズムに限らない。相手の自由にならない属性を理由に差別することは、この世にありふれているけど許しちゃいけない。

一方で、相手の選んだ見た目を褒めることは、即、相手を傷つけることにはつながりづらい(ここ、言葉を選ばれている感じがした。対人コミュニケーションで絶対は無いですしね)とも。


またアイドルの話で恐縮なのだけど、例えば今まで清純系だったアイドルが髪を染めたり、濃いメイクをしたり、セクシーな衣装を着たりすると、ファンの一部は本人に届く形で「前の方が良かった」みたいに否定のコメントをすることがある。よくある。

ファッションセンスというのは人それぞれだから、好きなアイドルの選んだ衣装やメイクや髪の色が、自分の好みと合わないことは十分あり得ることだ。好みではない格好が変に見えてしまうのも、仕方ないことだと思う。思うまでは自由。ただ、本人がその格好を選んでいるのなら、本人にわざわざ「その格好は嫌いだ、君に似合わない」と伝えるのは、私はあまり……、言葉が難しいけど、よろしくないように思う。

その逆で、本人が嫌だとインタビューなどで言っているにもかかわらず水着衣装のグラビアが行われるのも、受け入れ難い。

自分で選べているか、なのだと思っている。自分で選んだ格好、選べない強いられた格好。


見た目を整えることはルッキズムに加担することとは重ならない、という話もあった。

見た目を整える事は、セルフケアであり、自己表現。

スキンケアもそう。男性の美容もそう。

自分が心地よいほうを選んでいく。

ここに来て、「美容は自尊心の筋トレ」という長田さんの著書のタイトルに頭が行き着く。

自尊心は、自分のために自分の心地よいほうを、面倒でも何でもえいや!と選んでやっていく、そういうことの積み重ねで育まれ慈しまれていくものだと思うから。

他人ではなく、自分の評価軸で、ひとつひとつ選んで自分の見た目を作っていく。ああこれは、自己決定の話だなー、と思ったのは、そういう流れ。


ちなみに、一般には男性のほうがより今回言われているようなセルフケアからは遠いかもしれないな、と思った。それぞれ違うしんどさがあるのだろう、きっと。


ルッキズム、エイジズム、セクシズム

この三つに縛られているのが今の日本の女性なんじゃないか、と。

私自身、ルッキズム講座を受けようと思った理由に自分のセクシャリティを考えるきっかけになるかなと言う部分があった。

見られること、役割を求められること、選ばれる、求められる存在であったほうがいいと思われがちなこと。

女性としての自分と和解するにはなかなか難しい道のりだなあ、と思いつつ。


・経年変化するからこそ面白い

最後の方に出てきた、エイジズムと絡めてのこの話。とても納得。

古いドラマなど見ていて、女優さんが皺の刻まれた顔や手で台所のことをしているシーンなど見ていると、染み付いた時間の匂いみたいなものが感じられてとてもいいと思う。人間なのだから、綺麗なおばさん、綺麗なおばあさんの役ばかりじゃなくていいよね。

といって、自分も自分の加齢に対しては抗うのかもしれないけど。そのときになってみないとわからないな。


・最後に

質疑応答で「みんなが他人のためにメイクしているわけではない(自分のためのメイクもある)」、「自分なりの付き合い方、濃淡を探していくこと」と言われてそれが印象に残っている。

自分も、他人も、好きな格好を心いくまで楽しめる世に早くなるといいな。

世の中はそんなにすぐに変わらないけど少しずつは変わってくれるかもしれないから、諦めずやけにならず、自分の心地よい方法を探す。探しましょう。

早くギランギランのメイクして遊びに行きたいなあ。