祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

毛布を奪うな

朝、このツイート(https://twitter.com/3h4m1/status/1186821269221564416?s=21)
とnoteの文章を読んで、ああ、と思って、最近考えていたようなことを書きました。書いてみて、これは本当は色々参照しながら間違いのないよう腰を据えて書かないといけないものだと気付いたのですが、とはいえ勢いがないと多分書ききれないので、一旦置きます。気が向いたら何か足すかもしれません。

 

 


  理想論でしかないけれど、私はずっと、漠然とした言い方だけど、助ける人と助けない人の間の「線を引く」ことへの抵抗感を抱えている。それは半分は義憤めいたものだがもう半分は自分可愛さのようなものだ。線が一度引かれたならばやがてその線が自分や自分の大切な人たちの上に引かれ切り捨て枠に入れられるのだろうという半ば確信のようなものがある。私は現在社会のお荷物枠で、それはまあ自分のことだからいいとしても、私の周りには年齢や病気やその他諸々、なにかしらの弱さを抱えながら生きている人がたくさんいる。その人達を大切に思う気持ち、せめて平穏でしあわせな日々を送ってほしいという願いがわたしの中に強くある限り、マイノリティ、とか弱者、とか、そういう話題に対して完全に冷静な、客観的な話し方をできる日は来ないのかもしれない。

  線を一度引いたなら、その線はだんだんと動いて、より多くの人を「向こう側」即ち助けなくてもいい人、のほうへ追いやっていくことだろう。線をはじめに引いた人はそんなこととは気づかないしその線がゆっくり位置を変えていくことにも気付けないのだろうけど。(と思っていたけどもうとっくに線は引かれているね、こうしてのっぴきならない状況へとなし崩しでなだれ込むのだね。と最近は思っている。)
 
  先日友人と、ゆるく福祉の話などをしていて、何度か出てきたのが「ライナスの毛布を奪わないでほしい」という言葉だった。その場の思いつきで発したワードだったけど、後から考えても自分のなかではしっくりきている。大人になってもライナスにとっての毛布と同じような、かけがえなく大切な存在を持つことがある。本人にとってどれだけ大切でも、他の人から見ればそれはガラクタに見えたり、大切にしているということはわかっても優先度が高いものに見えなかったりするらしい。だから度々、「〇〇のほうが大切でしょう」と、手放すこと、諦めることを有形無形に要求される。だけど、その人にとって大切な存在を、世間的には価値が低いからといって手放させたり適当に扱ったり、それによる心の痛みを大したことがないと言い放ったり、そうしたことを必要なことだからと飲み込むことがどうしてもできない。
  あるいは、これはあくまで思いつきだけど、社会、経済、生産性、といった観点からは価値が認められないものを後生大事にしている姿、それがどうしようもなく贅沢に見えて、ゆえに苛立ちを誘うものなのかもしれないな。そんな弱く儚いものにリソースを割くなんてバカだ、と叫びたくなるのかもしれない。そんな余裕は(私に/あなたにも/この社会には/世間が、etc)無いのだと、そのあなたの行動に使われているのは一体誰のお金なの、など「現実を突きつける」ことでなにか自分の気持ちが慰められるのかもしれない。
  どのような人でも無条件に保障される権利がある、というようなことを、せめてタテマエとしては守られている世の中ならばどんなにか生きやすいだろうと思うけれどどうもそうではない。それでも、社会がどう進もうとも、個人が個人を大切に思う気持ちは(状況により隠すことはあれど)捨てられるものではないだろう、とも思う。

  NHK津久井やまゆり園の事件を受けて進めているプロジェクトに 「19のいのち」というWebサイトがある。メインに「亡くなった19人の方々」というテーマのページがあり、「19人の方々のご家族や関わりのあった方から寄せられた思い出やエピソードを1人ずつ紹介しています」と説明が添えられている。ひとりひとりのページを開くと、ご家族、施設の職員の方々、他の入所者のご家族などがその方について語る文章が並ぶ。読むうちに、ひとりひとりの語り手が、大切なたったひとりを亡くされたのだということが、どんどん胸に迫ってきて、どうしても独りでに涙が止まらなくなる。ともに過ごしたり、暮らしたり、生活をともにしたり、そうしたことで積み重ねられてきたやりとりを通して、単なる障害者とか患者とかそういう属性の話は遠くへ、ただそのひとりをそのひとだからかけがえなく大切に思う気持ちだけが残っていくような、そういう瞬間というのがきっとあるのだと思う。もちろん、たくさん負担もあるし、綺麗事じゃ全然無いだろうし、何を言うんだという感じだけど、ただずっと与えるだけ、お世話するだけで暮らしているわけでは多分なくて、もたらされるものもあって、たしかにやりとりは成立していたのではないか? それが、語られるエピソードに感じられる。

  だからこそ、自分にとってそう見えるからあの人たちは意思疎通ができない、そういう人達には生きる意味がないなんて、負担なだけだなんて、決めつけるのはあまりにも傲慢だ。奪われたのは誰かにとってかけがえのない誰かだったのに、そのことを見ずに数や資源のように語る人たちも同じ。

    誰も切り捨てられないであってほしい、というのは、そういう「自分にとって、世の中にとって価値が無さそうだから生きている意味もなさそうだよね」みたいな他人への謎の上から目線ジャッジへの強い抵抗の意でもある。あなたにとってそう見えたとしてもその人は誰かにとってはかけがえのない人であるかもしれないし、もちろんそうでなくても一向に構わないし、あなたには見えないだけのものがたくさんあるし、生きてていいかどうかなんてことは誰にも決められない。綺麗事でも譲れない。そこをないがしろにしたら、線はどんどん向こう側のひとを増やしていくと思うから。