祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

鬱のときの呼吸の仕方

キリンジ『Drifter』の歌詞には「たとえ鬱が夜更けに目覚めて 獣のように遅いかかろうとも」という一節がある。初めて聴いた時には衝撃で、耳がそのフレーズを捉えた瞬間あまりにびっくりしてスマホを慌てて引っ掴んでその部分だけ巻き戻して聴いたほどだった。穏やかなメロディに気を抜いていたら鬱の本質を突然言い当てられた驚きだった。鬱はひそかに潜伏していてある時突然目覚め、獣の激しさで襲いかかる。確かに目覚めは夜更けが多いが、とはいえ太陽の燦々と差す朝だろうが日曜の午後だろうが時を選ばない。別に思い当たるきっかけもないのに急降下する。予感のある時もあるがまったく予測がつかないで急に入ることもある。なんか身体が重いな、と思っていたらあっという間に沼の底に落ちているような。


抑うつ状態と言われてから約5年、その間に病院が変わったり診断が双極性障害に変わったり処方が調整されたりしてきたが、上に書いたような突然やってくる鬱に対しては避ける方法を見つけられずにいる。うまくやれば、波の上がり下がりを小さくすることは可能なような気はする。ただし今のように恒常的にストレスがかかっているような状況ではそれも難しい。


そんな訳で、鬱の波に襲われたときの、それもひどいひどい波のときの対処法の話をしたい。あくまで私の場合なので、個々人で色々あるんだろうな、と思いつつ。


私の場合はとにかく寝るしかない、それに尽きる。というか寝る以外に何もできないくらいに眠くなったらそれは鬱に入ったサインなので、逆説的に鬱に入ると寝ることしかできなくなる。とにかく水とスマホだけ持ちこんでこんこんと寝る。薬だけは忘れないで飲める場所に置いておくこと。
起きた時、少し頭が回復してきていると「日がな一日寝ることしかできないなんてなんて非生産的で無価値な人間なんだろう」みたいな思いに取り憑かれて眠って過ぎた今日一日を猛烈に後悔することがあるが、これは鬱の症状であるので引っ張られてはいけない。生き延びるために眠っているとよくよく覚えておいた方がいい。客観的に見てどれだけ怠惰であっても、眠りに逃げ込んでいるときそれはある種前向きな生き延びる意思である。もはや身体が動かないだけなのだとしてもそれも防御反応だ。自罰感も希死念慮も症状であり、けれど自分の気持ちのように思わせられるから厄介だ。どこまでが自分でどこからが病気の見せるものかなんて腑分けはできない。だからこそ、気分なんて曖昧なものに身を任せるより、いっそ眠ってしまった方がいいのだ。どうせいくらだって眠れるのだから。
寝て、寝て、もう寝られないとなって布団を出られるようになったらようやく少しだけ出口が見えてきたかもしれない。そこからがまた大変で、荒野と化した生活をできるところから一つ一つ再建しなければならない。布団だけで暮らし服薬とお手洗いだけで精一杯だったところから、お風呂に入ったり簡単でも食べるものを作ったり、片付けをしたり。一つ一つを取り戻すのはとてもしんどいことだ。それでもお風呂に入ればさっぱりするし、物を食べればおいしく感じる。正の感情が動くこと、それを感じ取ること、感じ取ることができていると認識すること。ここまで来てようやく布団を出て生活に戻ることができ始める。
でもまたそのうち次の大波が来る。来なければいいし、来ないようにしてみてはいるけれど、やっぱり来る。私は、というか私の身体も心も強くはなくて、自分ではどうしようもないところであれこれ揺らぐ。
今は波の合間で、幸いにも息継ぎができている。だからこんな文章を書いて、次に備えようとしている。急に寒くなって、多分またそろそろ息ができなくなる。そうしたらまた眠るしかない。眠っている間は、不思議に息ができているらしい。