祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

近況

「西の魔女が死んだ」を読んでいる。あまりにも、今の自分をなぞるための読書だと思うのだけど。主人公のまいが、祖母とジャム作りをして、来年も、その次も手伝いに来るよ、と言ったら祖母がうれしそうに笑って何も言わなかった、のところを読んで、(序盤も序盤で)泣いている。私もこういう約束を何回しただろう。そしてそれをどれだけ守れただろう。何が最後になるかって分かっていたら、もっとひとつひとつの機会に対して誠実な態度が取れただろうか。

そんなことを考えていたら、この文章を書いていた。この後に続く話は、あと何回か、するかもしれないし、これきりかもしれない。


母方の祖父が亡くなった。私が中学生のころ、ずっと勉強を教えてくれていた。私が勉強それ自体はまっすぐに好きでい続けられたのは、そうして今の自分があるのは、祖父の影響があまりにも大きい。そのこともあって、普通の祖父と孫とは、すこし違った関係だったように思う。祖父も私も、お互いにお互いにしかしない話題を持っていて、さらにそれを相手向けにチューニングしたりして会話していたように思う。だから、それ自体をそっくり持ち出したとして、他の誰にも意味がわからないと思う。そういう意味で、世界から少しだけ失われたものがあると思うのは、センチメンタルすぎるけど。


失われたものはある。七夕の短冊に「世界平和」と書くような、ロジックを愛するがゆえに融通がきかないような、できるならいつまでもなにか勉強をしているような、そういうひとがひとり、いなくなった。わたしはまだ、世界情勢が荒れれば祖父から電話がかかってくるような気がしているし、マンションに行けばベッドに寝ているような気がしている。でも全部気がしているだけで、ちゃんと考えれば、もう全部ないことに気がつく。気がつくまで、気がついていない。仕事が忙しいのにかまけて、認識のアップデートをさぼっている。受け入れたくないのかもしれない。受け入れられないのかもしれない。分からない。こんな大きなことがあって、なんで平気で仕事しているんだろうと思うときもあるし、考えたくないから仕事があってよかったと思うときもある。時々、仕事じゃないときに、きっかけがあると不意に涙が出る。涙が出るだけで、感情は動いていない。あまりよくないな、とは思っている。

祖父がどんな人で、わたしがどんなふうに祖父を好きだったり、大切に思っていたかは、たぶん書ききれない。都度都度思い出す。思い出すだけで、もう思い出が増えないことにも、びっくりしている。死はあまりにも厳然としている。あと、偶然すぎる。

近況

頭がひどく痛くて、会社を休んでいる。

頭痛くらいで休んでどうする、と思うのだが、起きていられないほど痛いのだからどうしようもない、と自分に言い聞かせている。

働き出してから、こういう日が時々あって、ものすごい目眩とか、何を食べても吐くとか、症状はその時々で違うけど、休んでしまった気持ちの重さは変わらない。

残してきた仕事のことも、穴埋めすることになっただろう人のことも考えてしまうし、休むことにどう思われているかも不安で仕方ない。

週5日働くことにまだ慣れず、慣れる日が来るのかも分からない。

普通にできるはずのことが普通にできない。

身体が弱い人、という特徴を引き受けて、今の職場で、やれる限りのことをやるしかないのか。

明日は出社できるように祈っている。

近況(働いています)

働いています。

働き出してから、4ヶ月くらいが経ちました。
そのうち初めの一月半くらいは、研修を受けていてやることと言ったら毎日勉強だったので、働いている実感はなかったのですが、今の部署に配属されてからは実感がメキメキと、あります。
と言っても、今の私のやっていることが難しいわけではありません。私はまだ、部署の仕事のほんの少ししか関わっていません(新人だから、と自分に言い聞かせないと、周りとの忙しさのギャップに申し訳なくて潰れてしまいそう)。
ただ、前任者や先輩たち、上司、その他諸々の関係者、そうした人たちを見ていて、働くってこういうことなのかと日々思っています。
 
働き出したからといって、身体や心が急に強くなるわけでもなく、定期的に体調を崩してはいます。
体調を崩す前に計画的に有給を使って息抜きしていけるようにするのが、当面の目標です。
 
今の部署にいたら、週5で20時とかに帰るのが普通になる日がやがてくるらしいのですが、まだちょっと、信じたくないです。
そんなことが果たして自分に可能なのか。
 
働いていないときに気にしていた色んなことから解放された、その代わりに、できなくなったこともあります。
家族が大変な時に手伝えない。犬が大きな手術を受けて、終わるはずの時間になってもポケットのスマホは鳴動せず、かといって頻繁に離席するわけにもいかず、ずっと気が気じゃなかったあの日。なんでこんな時に働いてるんだろう、とひしひしと思いました。一方で、犬の手術代を自分の働いたお金で(一部ですが)払うのは、まっとうな行いにも感じられて、つまり、働かなければ犬と暮らせないけれど働いていると犬と過ごす時間は減る、というような、ごくありきたりだけど重大な悩みに今、出会っているわけです。
 
何周遅れなんだろう。みんな、こういう色々と出会いながら、今までずっと働いてきている。
改めて、みんなすごいと思います。
私はまだ、来年も働いている自分をうまく思い浮かべられない。
でも今はまだ、やめたくはない。
それくらいの気分です。

 

働くことになりました。

これまでブログを更新しなかったのは、書くことがないというのもそうなのですが、私自身が就活をしていたからというのが大きな理由です。
次に書く記事は仕事が決まってからにしよう、そう思っているうちに就活(広義の)に二年半かかっていました。
その間、すごく頑張っていた時期もさぼっていた時期もありますが、とにかくなんやかやをしていました。
そして今日、仕事が決まりました。
自分にできるのか、続くのか、不安でいっぱいですが、皆が頑張っているところにようやく自分も入れる、という嬉しさはあります。
ずっとみんなが頑張っているのに自分は何もしていない、という気持ちがあったので、ようやく、といった感じです。
前半は鬱で、後半は介護で過ぎた20代はもう取り戻せませんが、これからも人生は長いはずなので、がんばっていかねばなりませんね。
無職あるあるが溜まりすぎている自分ですが、どうにか働き続けられるよう、がんばりたいです。
以上、決意表明でした。

鬱のときの呼吸の仕方

キリンジ『Drifter』の歌詞には「たとえ鬱が夜更けに目覚めて 獣のように遅いかかろうとも」という一節がある。初めて聴いた時には衝撃で、耳がそのフレーズを捉えた瞬間あまりにびっくりしてスマホを慌てて引っ掴んでその部分だけ巻き戻して聴いたほどだった。穏やかなメロディに気を抜いていたら鬱の本質を突然言い当てられた驚きだった。鬱はひそかに潜伏していてある時突然目覚め、獣の激しさで襲いかかる。確かに目覚めは夜更けが多いが、とはいえ太陽の燦々と差す朝だろうが日曜の午後だろうが時を選ばない。別に思い当たるきっかけもないのに急降下する。予感のある時もあるがまったく予測がつかないで急に入ることもある。なんか身体が重いな、と思っていたらあっという間に沼の底に落ちているような。


抑うつ状態と言われてから約5年、その間に病院が変わったり診断が双極性障害に変わったり処方が調整されたりしてきたが、上に書いたような突然やってくる鬱に対しては避ける方法を見つけられずにいる。うまくやれば、波の上がり下がりを小さくすることは可能なような気はする。ただし今のように恒常的にストレスがかかっているような状況ではそれも難しい。


そんな訳で、鬱の波に襲われたときの、それもひどいひどい波のときの対処法の話をしたい。あくまで私の場合なので、個々人で色々あるんだろうな、と思いつつ。


私の場合はとにかく寝るしかない、それに尽きる。というか寝る以外に何もできないくらいに眠くなったらそれは鬱に入ったサインなので、逆説的に鬱に入ると寝ることしかできなくなる。とにかく水とスマホだけ持ちこんでこんこんと寝る。薬だけは忘れないで飲める場所に置いておくこと。
起きた時、少し頭が回復してきていると「日がな一日寝ることしかできないなんてなんて非生産的で無価値な人間なんだろう」みたいな思いに取り憑かれて眠って過ぎた今日一日を猛烈に後悔することがあるが、これは鬱の症状であるので引っ張られてはいけない。生き延びるために眠っているとよくよく覚えておいた方がいい。客観的に見てどれだけ怠惰であっても、眠りに逃げ込んでいるときそれはある種前向きな生き延びる意思である。もはや身体が動かないだけなのだとしてもそれも防御反応だ。自罰感も希死念慮も症状であり、けれど自分の気持ちのように思わせられるから厄介だ。どこまでが自分でどこからが病気の見せるものかなんて腑分けはできない。だからこそ、気分なんて曖昧なものに身を任せるより、いっそ眠ってしまった方がいいのだ。どうせいくらだって眠れるのだから。
寝て、寝て、もう寝られないとなって布団を出られるようになったらようやく少しだけ出口が見えてきたかもしれない。そこからがまた大変で、荒野と化した生活をできるところから一つ一つ再建しなければならない。布団だけで暮らし服薬とお手洗いだけで精一杯だったところから、お風呂に入ったり簡単でも食べるものを作ったり、片付けをしたり。一つ一つを取り戻すのはとてもしんどいことだ。それでもお風呂に入ればさっぱりするし、物を食べればおいしく感じる。正の感情が動くこと、それを感じ取ること、感じ取ることができていると認識すること。ここまで来てようやく布団を出て生活に戻ることができ始める。
でもまたそのうち次の大波が来る。来なければいいし、来ないようにしてみてはいるけれど、やっぱり来る。私は、というか私の身体も心も強くはなくて、自分ではどうしようもないところであれこれ揺らぐ。
今は波の合間で、幸いにも息継ぎができている。だからこんな文章を書いて、次に備えようとしている。急に寒くなって、多分またそろそろ息ができなくなる。そうしたらまた眠るしかない。眠っている間は、不思議に息ができているらしい。

「女(じぶん)の体をゆるすまで」を読んで

ぺス山ポピー『女(じぶん)の体をゆるすまで』*1を読んで思ったことを書きます。単行本が一昨日届いたので。後にも書くように自分個人の読書体験の話なので、あまり感想や紹介の体は為さないです。

2017年の9月、つまり今から4年前、私はこのブログに以下のような文章を書いていた。

性自認に違和はない。自分が女性であることを認めている。それとは別の面で、自分に女らしさを求めないでほしいと思っている。
「女らしさ」にほんとうの意味でよいイメージを抱けていないのかもしれない、と考えて、わたしはわたしに内面化されたミソジニーの存在を認めざるを得なくなってしまった。普段どれだけ美しい理想を語っていても、心の底では女性としての自分を蔑み、嫌悪している、ことに気づいてしまった。」

抵抗 - 祈りにも似て

私はこの、自分の中にある、自分に向けているから表面化しないだけではっきりと存在する差別意識を、4年経った今でもきっぱり捨てきれたようには思わない。自分の身体が嫌いな気持ちと女性としての自分が嫌いな気持ち、その先にあるのはやはり女そのものへの嫌悪なのではないかと思わずにいられない。自分だけに向けているからいいのかといえば、決してそういう話ではない。

『女(じぶん)の体をゆるすまで』は、性別違和を持つ作者・ぺス山ポピーさんが、自身の受けたセクシュアルハラスメントとそれによる後遺症、それらから「助かる」ために、自身が被害にあったセクハラについて、またこどもの頃からあった性別への違和感とそれに関わる友人とのエピソード、セクハラ加害者との対話、などを漫画にしていくこと、また別面では様々な専門家に頼ること、を通して、徐々に自身を「ゆるすまで」を描いた作品だ。作中、過去を参照しながらも時間は徐々に進む。時が進むにつれ社会も作者自身も変化していく。絡まり合った「女の体」への認識を解く過程として、また変化の記録として、色々な読み方をすることができる。私は、私の救われた話としてこれを書いているので、あまりちゃんとした感想にはならないと思う。読む人ごとに違う印象になると思うので、気になっている方はぜひ読んでほしいと前置きしておく。

私は性自認に疑いを持ったことがない。自分が女であることを認めている。つまり作中ぺス山さんが使用している呼称としての、性別違和やトランスジェンダーXジェンダーといったものには当てはまらない。
それでも私はこの作品に救われたと思った。『女(じぶん)の体をゆるすまで』というタイトル、また例えば「私は自分の体をとても憎んでいて、人間関係もうまくいかない。つまり、私は自分とも他人ともうまくいっていないんです。だから、仲良くしたい」という台詞。自分の体を嫌悪している、けれど、仲良くしたい、ゆるしたい、そういう気持ちをこんなにきちんと表してくれた作品を私は他に知らない。

ぺス山さんの前作『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』本編*2及び番外編*3 (以下『ボコ恋』)でも、同じテーマが今作とは別の経験を通して描かれている部分がある。
ぺス山さんは作中ある男の人と付き合う。最近のインタビュー*4では、「でもその相手から、めちゃくちゃ差別されました。それで初めて『あ、好きな相手でも差別するんだ』と思った。」と、「差別」という言葉を使ってその時二人の間で起きていたことを語っている。
その「差別」とは、ぺス山さんに自身の理想とする女性の規範、とりわけ「女」はこういうものだという蔑視から成り立つ女らしさの規範を押し付ける、という類のもので、詳しくは『ボコ恋』番外編に描かれている。付き合っていた当時のぺス山さんはそうした彼の接し方に対し「『どうせ女』なんだし仕方ない こうされて当たり前なのだ」と自身で納得していた、という。そして後に、この「どうせ女」という考えについて、「私自身が強烈に女性を差別していたのではないだろうか だからこそ彼の態度に納得してた」と振り返る。「自分の身体に違和があったとしても 自分の身体を差別していいわけじゃない」とも。

ぺス山さんは、物心ついた時からずっと続く性別違和があり、さらにセクハラによって大きな被害を受けている。作中繰り返される内心の叫びとしての「なんで女に生まれてきた」という言葉のように、自身の性別と体を嫌悪するに至って当然といえるだけの経験をしてきている。
一方で『ボコ恋』番外編では自分自身の中にある女性への差別意識にはっきりと言及している。本作でもその問題意識は変わっていない。ぺス山さんは被害者で、それはどうあっても揺るがされない事実なのだが、一方で自身の加害者性についても強く意識を向けている。そして本作でぺス山さんは、漫画を描くという行為によって、担当編集の方やこれまで関わってきた人たちとの対話を重ねていくという手法を取っている。実際作中に、誰に対してもセクハラのことを話せなかったぺス山さんが、漫画なら表現できる、という実感を得る印象的なシーンがある。ぺス山さんにとって漫画は語りなのだと思った。自身の経験の語り。

これは私の話になるが、自分に向けた憎悪や差別は、表に出ることが少ないために自分で気が付きにくい。人間関係のなか、ふとした拍子に相手を傷つけてそこにある自分の認知の歪みのようなものに気付く、というのは、あくまで誰かと深く関わっていく中で起こることだ。自分に対しての憎悪は誰に指摘を受けるでもなくただずっと自分の中にあって、しかも原因は自分がそう生まれたことにあると思っているからどうにもならない。どうにもならないことを他人に話しても理解も解決も得られないだろうと思っているから黙り続ける。そうして、自分のような人なんてこの世にいないんじゃないか、そんな思い上がりのようなことすら考える。でも、本当は誰かと話したい。そうしたぐるぐるを経て、2017年の私は冒頭のようなブログをわざわざ書き、自分の現在を言葉にしたのだと思う。自分の中にある、自身の身体への嫌悪と差別意識との結びつきという、自分固有の経験が結局何なのか、確かめたかったように思う。

だからこそ、ぺス山さんが『ボコ恋』そして『女(じぶん)の体をゆるすまで』を描いてくれたことは、私にとって救いとなった。ぺス山さんの個人的な経験から、私はいくつもの声を聞くことができる。その声に私は安堵する。似ているとか重なるとか、共感とは少し違う気がする。ただ境遇は違うけれども、自分は一人ではないと思うのだ。ぺス山さんの作品を読むまでは、私はこの問題に関してそんなふうに思ったことは無かった。
自分が自分をゆるす日が来るのか、まだ私には分からない。私の問題は私の問題としてあるから。いまは、この作品が届くべき人の所へ届いてほしいと思う。

*1:ぺス山ポピー『女(じぶん)の体をゆるすまで』上・下、小学館、2021年 https://yawaspi.com/yurusumade/
※タイトルは「女」と書いて「じぶん」と読むルビが振られています

*2:ぺス山ポピー『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』全二巻、新潮社、2018年

*3:『ボコ恋』番外編については単行本未収録、連載していたくらげバンチ公式サイト(https://kuragebunch.com/episode/10834108156703394636)で読むことができます

*4:

「愛する誰かがいなきゃ救われないなんて、そんな残酷な話がありますか」 セクハラ事件からジェンダーの揺らぎに向き合う漫画『女の体をゆるすまで』作者インタビュー(1/3 ページ) - ねとらぼ

私の話

体験と伝聞からなる不正確な、つまり極個人的な文章であることを初めに書いておく。そう言い訳しておかなければ、当事者の数だけ違う経験を持つような話題について自分のことを書いていいのかわからなくて、結局書かないで終わりそうだから。実際、何度も書いては挫折してきた話だ。どうやっても不格好な、「私の話」にしかならない。

両親に障害があるというのは、正確に言うと身体障害があるというのはどの程度特殊な経験なのだろうか。それは私にどの程度影響を及ぼしているだろうか。自分で見積もるのは難しい。影響は、人との関わりのなか、大きく言えば社会と自分との関わりのなかでしか発見されない。そして障害者をめぐる言説にポジティブなものが多いとはとても言えない社会の中で、自分の根にあるものを再確認するときというのは大概気分の悪さとセットである。

父は四肢に緊張が不随意に出てしまうタイプで、歩き方がギクシャクしていたり急に背中に力が入ってしまったりする。母は左肘から下が動かない。とはいえ両親に障害があることでものすごく困ったという経験はこれまでのところ無い。それは、うちの親が自分の身の回りのことは自分でできる人たちだったので私がヤングケアラーと呼ばれる役割を果たす必要がなかったこと、両方の祖父母が必要であれば積極的に手助けをしていてくれたこと、目に見えて差別的な態度を投げてくるようなひとが大人にしろこどもにしろ殆ど身の周りにいなかったこと、そうしたいくつもの幸運がたまたま重なったからであって、だから逆に言えば私には語るべき経験など無いと思ってきた。障害のある身体で子育てしてきた私の親はともかくとして、私の方は大した苦労もしていないので。

大した苦労もしていない割に、この経験について書けば中身が無くても中身があるようなものが書けてしまいそうでそれも嫌だった。「両親に障害がある」とはそれだけで特殊なパッケージで、そこに自動で付いてくる「親を手伝ういい子」という見方に違和感を覚えるようになったのはいつ頃からだろうか。物心ついていないときからずっと地続きの話だから、自分でもどこが変化のタイミングだったか、というようなことをもううまく思い出せない。ただなんとなく、「よく手伝ってえらい」と言われれば「そういうものだろうか」とぼんやりと思い、「女の子産んでおいてよかったわね」(信じられない感覚だがこれを母に言う人は複数人いた)と言われると「男の子だったら手伝わないんだろうか」と思ったりした。まだ構造とか、言葉とか、そこまで考えないで過ごしていたこどものころの感覚。

小学生のころまでは、両親の事情を周囲に隠すことは特になかった。というよりクラス替えがある度に、授業参観などで片手が麻痺している母を見た同級生から「おまえのかーちゃんの手どうしたの!? あれなに!?」と聞かれ、毎回自分が聞いていた通りに「小さい頃高い熱出してそしたら手が固まっちゃったんだって」と答え、すると聞いてきたほうも悪気はなく好奇心だけなので「まじかよすっげー」みたいな反応をして、それで終わりだった。その頃はお互いにその程度のものだったから、嫌な思いもしたことはなく、私は両親の障害という事情は多少珍しくとも隠すようなことではないと思っていた。

中学生になって、あまり話したことのない同級生二人からある日突然「お父さん障害者なんだって?」と聞かれた。感覚が小学生のころから変わらないままだった私は(母もそうだけど)と思いながら、肯定した。二人は顔を見合わせてなにか面白そうに笑いながら、「この間お父さんあのお店の辺りで見たよ」と言って、歩き方こんなふうだったよ、とくねくねした身振りをして見せ、そのあとで父が店の前で奇行をしていた、と(具体的には言葉にしたくない、とにかくいわゆる「奇行」をしていたと言いたくて懸命に考えた、というような内容だった)言って、そこまで言うとこらえきれず笑いだして逃げるように走り去ってしまった。

その体験をどう捉えたらいいのか、こうして思い返して言葉にできるのはもう10年以上経っているからで、言われた後はそれこそ2年くらい、そもそも記憶に蓋をしてなるべく無かったこととして過ごしていたと思う。でもそのなかでうっすらと、彼女たちが「身体障害」と「知的障害」と「精神障害」を全部「障害者」として一緒くたに考えていたからあのような発言になったのだろう、ということは、当時の自分の知識と照らし合わせ理解した。彼女たちはおそらく父に会ったことは無いかあっても見かけた程度で、なにか別のルートで私の父の障害を知り、なにそれ面白いじゃん、となってちょっとからかってみた、ということなのだと思う。そして、彼女たちのなかにある障害者像というのが私に語ってみせたようなものだったのだろう。

彼女たちにそう言い逃げされて、何を言われたんだ今、というフリーズの後、中学生当時の私が初めに思ったのは、正直なところ「うちのお父さんはそんな馬鹿じゃない」だった。父は実際、障害のせいで咄嗟の発語や筆記がうまくいかず、そのせいで内面まで低く見積もられることが多かった(余談だが、数年前の選挙時に乱れた筆致での投票券の写真を載せ、こんな文字書くやつ日本人じゃないから不正投票だ、という主張をするツイートを見かけたとき私の脳裏によぎったのはふだんの振り絞るようにして字を書く父の姿だった)。しかし家族として過ごしてみれば、うちで一番頭が良くて物知りなのは父であったし私は父のそう言った側面を尊敬していた。だからなによりもまず、父の知的能力を馬鹿にされたということがとても悔しかった。そのあとで、彼女たちはもしかして障害にそれぞれ種類があることを知らないのか、と思った。次に、障害者なら何を言ってもいいと思ってああいう発言をしたのか、ほんのからかいの冗談に無知が重なりああなったのか、と納得がいった。それまでは正直、あるはずもないエピソードをなぜ私に言ってきたのか意図が分からなかったので、少なくとも理由が分かって混乱は落ち着いた。その時はただ自分を理不尽の被害者としか捉えていなかった。

この騒動を経て私は、障害者というだけでひどい言葉を投げられること、自分がそれにとても耐えられないことを知った。それまでは本当に温室にいたのだ。母が幼い頃も大人になってからも差別に苦しんだことを話には聞いていたが、自分の大切な人に対し突然侮辱をされたときの心臓に冷や水を掛けられたみたいな思いを実際に経験して初めて思い知るものがあった。結果的に私はものすごく警戒心が強くなった。誰がそういうことをしてくるか分からないから両親のことは隠し通そうと。

高校で出来た友人は本当に素敵な子たちで、私は時折、この子たちなら分かってくれるんじゃないか、聞いてほしい、と思った。でも結局誰にも言わなかった。
大学では、そうした事象に関心の高い友人を得て、差別をしないことをきちんと知識として学び考える人がいるのか、と思った。そうしたほんの2,3人には家のことを話した。話してみれば後の会話はそれまでよりスムーズになった。家族の話を多々するくらい親しい間柄で、それまではその家族について根幹の部分を誤魔化していたのだから当然だ。
一方で、それ以外の人には世間話のなかで、必要があれば「うちの親は身体が弱くて」というようなことを言って誤魔化していた。嘘だと分かっていて言うのだから言う度舌の上がざらざらするようだった。とはいえ誰彼構わず本当のことを言うことはとてもできなかった。というのも、普段の言動からは全く想像ができないひとが不意に障害者に対しては差別的なジョークを言ったりすることが何度もあったからだ。その度肝が冷えた。この分野に関しては安易に人を信用してはならないのだった。障害者に関するものは当事者やその近くにいる私のような人間がすぐ傍にいるとはまったく思わないで気軽に口にするひとも多いらしい。でも場に合わせて笑う自分も同罪だと思った。明らかに自分のバックボーンを裏切っていた。とはいえその場で自分の事情を明らかにする勇気もなかった。言っているほうに悪気はないのだ。中学生の時と同じで。

大学生になりさすがに物心も付き始めて考えるに、私だって差別につながる気持ちは持っていたのだ。中学生の時私は「父はそんな馬鹿じゃない」と悔しくて泣いたが、その時の私は父が「身体障害者」であることに、他の障害種別と比べて優越を少しでも覚えなかったか?「頭は普通なのに」と思うことの暴力性に気付いていなかった。当時の自分にそこまで求めても、とも思うが、とはいえだ。私も地続きの所にいる、ことを忘れたら終わる。当事者に近いからって差別しないわけじゃない。さらに言えば当事者同士でも差別感情やヒエラルキー意識のあることも、両親を通して知った障害者同士の人間関係の一側面だった。

同じく中学生のころ、ふと自分の結婚について考えてみて、あれ、と思った。私ってふつうの結婚できるのかな、と。きょうだいに障害者がいることが分かってまとまりかけていた結婚が破談になった、という話、それもまた、両親を通して聞いていた、障害者を取りまく状況の一つだった。そこからいけば、私も結婚は難しいのではないか。そもそも両親のことを知って相手がそれを受け入れてくれるか、の裏返しで私だって両親を受け入れない人と一緒になることはできないだろう。

それともう一つ気にかかることがあった。私がこどもを産んだら障害はこどもに遺伝するのか。これに関してはいくら考えても自分では答えが出ず母に尋ねた。母は、自分たちの障害は後天的なものだから遺伝はしない、と答えた。私はほっとして、ほっとしたことに自分でひどくショックを受けた。普段から両親、ひいては障害者への差別なんて絶対許さない、というような気持でいるのにその私は健常な子供を産むことを望み障害の遺伝を恐れるのか。この自己矛盾は当時の自分にとってとても利己的で、醜悪なものに思えた。母に、変なことを聞いてごめんなさい、障害が駄目とかそういうつもりではない、というような、混乱した内面のままの言葉を発したら、母は「誰だって自分の子には健康で生まれてほしいに決まっているんだから気にすることは無い」となんでもないことのように答えてくれて、それが少し救いになった。

けれど根本的にはその時感じたものは解決していない。自分の中にもある差別。自分の子を望むときに健康を願う気持ちと、では自分はそうでない子を愛せないのか、という恐怖のような気持ち。今のところ子を持つ予定はないがそれとは全く別に、考えずにはいられない。「よい」ものを望む気持ちは、きっとそのほうがこの社会を生きてゆきやすいからで、この幸せを願うなら当然で、否定されるべき気持ちでは全くない。むしろ、疑われなければならないのは「よい」の基準と「よい」でないと生きづらい世の中の方だ。けれど現実には、世の中はもし変えられるとしても、ゆっくりとしか変わらない。

障害者を親に持つ人、というのは(私の)目に見えていないだけで私の他にももっといるはずで、ここで例に挙げることが適切か分からないけれど、「CODA」であるとか「きょうだい児」という言葉を見ると、ふと「私達は何だろう」と思う。名前がすべてではないし、似た境遇どうしで話をしてみたとして経験として重なる部分ばかりじゃないだろうけど、でも時々思う。

冒頭に書いた、「そして障害者をめぐる言説にポジティブなものが多いとはとても言えない社会の中で、自分の根にあるものを再確認するときというのは大概気分の悪さとセットである。」という部分。インターネット上では障害者に対して、「存在するべきでない」に等しい言葉を見ることも稀ではない。ネットでは匿名で人の本音が露出するというのなら、それも本音なのだろうか。本音だとして、もう存在する人たちはどうしたらいいのだろう。存在する人たちから生まれた私は?「生まれないほうがよかった」という言葉が届いてしまう位置にいる私はどうしたらいいのか。

固有の経験として、自分のアイデンティティに無視できないレベルであるものを、私は今のところ妹としか共有できない。他人からすれば大した話ではないけれど、私だって四六時中こんなこと考えてるわけではないけれど、でも、無しにはできない話なのだ。今だってまだ答えは出ないし混乱している。