祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

抵抗

どうして成人式のとき、振袖を着た自分に肯定感を抱けなかったのか、ずっと考えていた。ふと思った。着物を着ること自体がいやだったのではなくて、着物を着た途端に「おしとやかなお嬢さん」として扱われたことにひっかかりを感じたのかもしれない。あのときの感覚を、女らしさを求められることへの嫌悪と捉えると、すっきり理解できる。

 

性自認に違和はない。自分が女性であることを認めている。それとは別の面で、自分に女らしさを求めないでほしいと思っている。

 

「女らしさ」にほんとうの意味でよいイメージを抱けていないのかもしれない、と考えて、わたしはわたしに内面化されたミソジニーの存在を認めざるを得なくなってしまった。普段どれだけ美しい理想を語っていても、心の底では女性としての自分を蔑み、嫌悪している、ことに気づいてしまった。 

 

女性が嫌いなのではない。他人の女らしさに嫌気を感じたことも殆どない。これは、あくまで自分の弱さに向けられた嫌悪である。弱さを女らしさと結びつけて考えているところに認知の歪みがあるとは思う。けれど、喧嘩しているとき、頭は冷静なのに涙が勝手に溢れてくるこの身体を、どうやったら好きになれるのか。「男の前で女が泣く意味、考えた方がいいよ」あの言葉を否定しきれない。

 

「女らしさ」に結びつけられた、感情的である、だとか非理論的である、といった社会的なイメージは、そのまま自分のコンプレックスである。ゆえに、自分の弱さへの嫌悪がそのまま「女らしさ」を忌避することと結びついてしまった。わたしが悪いのではなくて、わたしが女だから弱いんだ、と考えているなら、それはもう、大いなる責任転嫁でしかない。全ての女性を馬鹿にしている、いくら謝っても足りない。それは単なるわたしの弱さでしかない、女であることとなんの関係もない。頭ではわかっている。でも、感情が追いつかない。なんでわたしは、すぐに泣いちゃって口喧嘩で勝てない馬鹿で馬鹿な女に生まれたのかな。そう思う自分を止められない。 

 

例えば、ありのままの自分、弱さもひっくるめた自分を愛するなんてことが本当にできたのならば、あるいはなにか変わるのかもしれない。自罰的な思考は害でしかないと知ってはいる。けれど、そんなこと、若いうちにはできそうもない。もっと強い自分になりたい。あるいはこれも、マッチョイズムみたいなものを嫌いと言いながら本当には憧れているってことなのだろうか。だとしたらもうめちゃくちゃに嫌になってしまうな。結局、なんのことはない、力が強くて声が大きくていざとなれば腕で勝てる上に論理的思考に長けているとかいわれる男性に、その種類の強さに、憧れ続けているのだ。

 

 

社会的な「女らしさ」「男らしさ」のイメージをどうにか乗り越えて、どちらにもこだわらずに、ただ自分として生きていくこと。自分の弱さをただ自分のものとして受け入れて、克服したりしなかったりすること。夜明けは遠い。