祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

深爪の痛み

ブログの紹介文に「生きることは深爪の痛みに似ています」と書いた。少し前から、多分そうなんだろうな、と思っている。

恋の最中に何か別のことを考えるシチュエーション、というのが好きで、例えば
このキスはすでに思い出くらくらと夏の野菜の熟れる夕ぐれ
伴風花『イチゴフェア』
あるいは百人一首の、
忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな
儀同三司母
これらの歌がいま思いつく。恋の絶頂といわんばかりにいま口づけしている真っ最中だというのに、そっと片目を開けてしまっている女を見てしまったような、そらおそろしさ。恋愛というもっとも自らを忘れて没頭しそうなものにすら、そうなりきれない冷静な自分が頭のどこかにいる。恋の絶頂だからこそその恋の行く末がはっきりとわかってしまうような、なにかさめざめとした感覚。激しい恋などしたことはないけれど、例えばすごく切実な言い争いをしていて、涙すら流しているのに、だからこそ、頭のどこかは冷えて覚めている、そういうときのことを思い出す。そして、そうした感覚と繋がっているのが、私にとっては深爪なのだ。

ゆめをみても
こいをしても
ふかづめは
いつもわたしとつながっている
『O脚の膝』今橋愛
この歌に出会ったのは小学校六年生のとき。祖父がくれた『12歳からの読書案内』という本の、歌集『O脚の膝』紹介部分に引用されていた。
初めて読んだときから強烈に印象に残って、それにリズムが良いので、すぐに覚えて心の中で口ずさむようになった歌だ。
深爪はどんな時でも私の身体の片隅にあって、それはどんなに夢見心地のときでも指先でちりりと意識される。「ゆめをみても こいをしても」ふわふわと浮かぶ私のことを現実の身体に引き戻すのは、深爪の痛み。なにをしていても、私は、私の身体から、もっと言えば私というものから、解放されることはないのだ。

よく深爪をしてしまう。常に痛いというわけではないけれど、たとえば髪を洗うときに指先に染みるシャンプーの感覚で思い出す。ああ、深爪していたんだっけ、と。深爪はいつもそこに存在していて、ふとしたときに自分を現実へと引き戻す。ヒリヒリとした、些細だけれど確かにある痛み。それってまるで、ということで、冒頭の「生きることは深爪の痛みに似ています」というフレーズを書いた。気取っているようにも思えるけれど、私にとっての実感でもある。なにをしていたって、本当になかったことにはできないのだ。いつもは忘れているだけで。