祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

素直に

  わたしの生きづらさの何割かは、女性である自分との関わりで生まれていることに気づいている。だから、本当は大学ではジェンダーに関する授業を多くとれば少しはつらさが整理されるかもしれないと思ってはいたけれど、なんとなく怖くて、近寄れないでいた。こわさは、言葉にするのは難しいけれど例えば「女性はこんな抑圧を受けている」と言葉にされたらその圧倒的な現実の前に立ちすくんでしまいそうだとか、これ以上「女性の抑圧」に敏感になったらもっと生活しづらくなるだろうとか、そんなところだと思う。結局、四年生になって何気なくとったクィア理論入門で、マイノリティそのものへの抑圧構造とその克服への闘い方、を学んだことが、わたしを少し楽にしてくれたのだけど。
  マジョリティとマイノリティなら、マイノリティに肩入れしがちな自分にも気づいている。「肩入れ」はいいことだけではなくて、それは時に偏っていて、なるべく判官贔屓だとか同情だとかにならないように努力が必要。で、結局のところ、なんでそうなのかと考えると、自分もマイノリティだという気持ちがわたしの根底にあることは、恥ずかしい自意識だけど認めざるを得ない。前にも書いたように女性である自分の受け入れに関して多少認識に歪みがあることが、わたしにその気持ちを抱かせている。といって、堂々とマイノリティ宣言をできるほどのものではない。ただひっそりと、人にはわかってもらえないだろうけど、と思うだけだ。そうして、マイノリティであろうと別に人に文句言われないで幸せになっていいでしょ当たり前でしょ、という怒りのようなものが、時々わたしを突き動かしてツイートさせたりする。
  女性と男性の話はすごくすごく難しい。たぶんどっちも「女性/男性らしさ」として当てはめられた役割が、それをこなせない人にはつらいものだから、なるべくそういうのは人によって柔軟に選択できるくらいのものになればいいなって思う。そこまでは冷静な顔をして言える。でもそれとは別に、そもそも力でかなわない男性に、女性はなにを言えるのか?と、思ってしまうこともある。どれだけ対等に扱って欲しいと思っても、殴られたら一発で泣いてしまうなんて、そんなのどうしたらいいかわからない。といって泣かれたら困るのは社会的に見て男性のほうで、それも勘弁してほしいだろうな、と想像はつく。もし誰かに「劣った性別のくせに」と言われたら、わたしはうまく反論できるだろうか?自信がない。わたしが劣っているのはわたしの性別のせいではない、絶対。そう思うけれど、時々、この身体のなにもかもが疎ましくなる夜がくる。
  ぐるぐると考えて、考えるけれど人にはおそろしくて話せない。「考えすぎ」「自意識過剰」「被害者意識」みたいに思われたらとてもつらい。ジェンダーについて考えているだけでめんどくさいやつみたいに思われがちな社会、爆破したい、という気分だ。