祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

気づき

  自分に対して、常に、客観的視点から見ての評価をなすように心がけていたことに気がついた。第三者の目から見て頑張っていると思われる水準に達していなければ、それは頑張っていないのと同じだということ。それってとてもしんどい考え方だ。無意識にやっていたから、いままで気がつかなかったけれど。
  だから最近は、なるべく主観ベースで自分の状態を捉えるように心がけている。私が「疲れている」と自分で思ったなら、それはとにかく疲れているのであって、たとえ他人から見たら疲れるほどなにかを成していないとしても、疲れたことは本当として認める、ということ。
  言葉にすると単純なことだけれど、やってみると、自分にとっては難しい。他人のふりをした自分の声がどこまでもつきまとう。「みんな頑張っているのに、私は頑張っていない」「みんなにできていることができていない」と。それでも、私は私を頑張っていると思ってあげたい。
  ポジティブシンキングという言葉が信用できないこどもだった。ポジティブって良いものだとされているけれど、どれだけ頑張って物事をプラスに捉えようとしても、どうしたって生まれつきの根がネガティブだから、無理に自分を騙しているみたいになってしまう。ポジティブシンキングなんて、生まれつきそれに向いてない人間には無理な話だ。
  でも、そういう斜に構えた考えは、物事の捉え方自体訓練で身につけられるものだと思うようにしてからは、無くなった。ポジティブは生まれつきどうこうの話ではなくて(もちろん生まれつきの人だっているけれど)、生きて行くうえでの方法で、戦略で、時間はかかるけれど、後天的に身につけてゆけるもの。いつでもご機嫌でいるには、物の考え方を訓練していくことが必要。生まれつきのせいにするより、そう考えたほうがずっと建設的だ。
  だからいまは、訓練と割り切って、自分を苦しくする思考のクセを少しずつ、バランスのとれたものにしていこうとしている。無意識の枠に気がつくのはとても難しくて、でもそのぶん、うまくいくととても楽になれる。考えれば考えたぶんだけ、少しずつ息がしやすくなる。それは明確に希望だと思っている。


書きながら思い出した句。

 おでこからわたしだけのひかりでてると思わなきゃここでやっていけない

今橋愛 『O脚の膝』