祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

かわいそうな子

  優生保護法のニュースに関連して、「(知的障害者にこどもを産ませて)責任が取れるのか、不幸なこどもが増えるだけだ」というコメントをいくつか見た。つらくなってそれ以上は追っていないけれど、そういう意見の人も世の中にはいるのか、と思った。

  以前、「親として完全な資質(健康、経済など)を持ち合わせていないならこどもを産むべきではない」という意見の友人たちと、そのことについて議論したことがある。そのときに感じたもやもやが、いま再燃している。
  ひとつには、それって、自分はどちらにせよ親になれると思っている側のひとだから言えることじゃないのかな、ということ。わたしには、わたしが「普通に」親としての資質を持つとは信じられない。この先歳を重ねてもそれは変わらないと思う。それでもあるタイミングになればこどもを産みたいと思う。それは罪なことだろうか? その友人たちは、自分を、ぱっと見に欠けたところがないから、「普通に」親としての資質を持ち合わせている側だとみなしているんじゃないか。でも、どこも欠けてない人間っているだろうか。
  綺麗事を言います。養育において障害の関係で不適切な部分があれば、それは周りが手を貸して導いてあげるべきだと思う。そんな特別扱いをしなければならない面倒な存在は、そもそもこどもを産むべきじゃない、という反論が聞こえてくるけれど、じゃあ手助けなしで養育を完全に進められる欠けたところのない親がいるだろうか。そもそも、養育を産んだ母親1人で進める必要はなくて、周りを含めて育てていくって考えてはいけないのだろうか。
  わたしがこの話に過敏に反応するのは、おそらく、すでに生まれたこどもたちへの配慮がないからだと思う。世の中には、様々な(たとえ名前が付いていなくても)障害を抱えたひとがいて、そういう親を持つこどもがいる。その子たちは一人ひとり、親に関してきっと複雑な思いを抱きつつも、たぶん(もちろんそうでなくてもいいけど)親を愛している。そういう子たちの、家庭における様々な愛のやりとりだとか、そういうのを、一様に他人が否定していいとは思わない。完全な親でなくても愛している、そんな思いは他人にどうこう言われるものではない。「完全な親でなければ産まないほうがいい」というような意見は、すでに生きている、不完全な親から生まれてきたこどもたちと、その子たちが親と歩んできた道のりと、そういったものを否定している。
  目に見えて欠けているところのある家庭だからって、その子が不幸だと決めつけてはならない。影響は少なからずあっただろう。それでもその子はすくすく育って、自分で考え選んで開いていまここにいる。それだけで十分だと思う。勝手に、産むべきではなかった=生まれるべきではなかった、なんて、言われる必要はどこにもない。

  わたしたちはみんなばらばらの家庭から来た。たぶんどこにも、完全な親、完全な家庭はない。いろんな形の家庭があって、それでいいんじゃないかと思う。欠けたところがあっても、助け合っていけたら。そう思ってしまう。