祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

うつの話

  うつ病の診断を受けてから、2年ほど経ちます。はっきりしたきっかけや原因は分からないままです。早く治る人は3ヶ月、なんて聞くけれど私の場合はそうはいかなくて、ずっと状態の良い時と悪い時とを繰り返していて、全体としてみれば回復傾向にはあるけれど、パキッと治る見込みはまだ立っていません。そもそもパキッと治る病気ではないし。

  このことをブログに書きたいと思ってからは、様々な考えがぐるぐると頭を巡る日々でした。私は自分の病気のことを、家族を除いてはほんの数人にしか打ち明けてきませんでした。私の友人のどれくらいがこのブログを読んでくれているのか分かりませんが、ここに書くということは、少なくとも何人かにはこの事実が届くということで、それは恐ろしいように思えました。「大切なことは大切な人にだけ言えばいい」という、私のポリシーにも反します。それに、わざわざ言うことになんの意味があるのかとも思いました。重たい話の告白なんて、誰も聞きたくないことをする意味とは?
  それでも、2年が経っていま、私はそろそろ、重荷を下ろしたくもなっています。留年の理由、就職しない(できない)でいる理由、それらをはっきりと言わなくても、私の友人たちは私を受け入れてくれています。それはとてもありがたいことです。ただ、もうはっきり理由を話してもよいのではないか、と思い始めたのです。
  ひとつには、治る見込みの遠いことがあります。この先もしばらくは私はこの状態と付き合わなければならないようです。病はすでに私と馴染んできてもいます。そうしたときに、うまく言えないのですが、診断当初に比べ、隠さなければならないという意識が薄れてきたのです。
  もうひとつには、それと関連して、このブログに文章を少しずつでも書き続けていくのなら、自分のこととして、この話を避けては通れないのではないかと感じたことがあります。なにかを書くなら、まずはここからなんじゃないかと。別に、これからうつの話ばかり書くとは思わないのですが。
  どちらもとても感覚的な話で、やっぱり私はこの衝動をうまく説明できません。ただ、なんとなく、書くと決めたのです。具体的な読者を想定したりしていない、ごく個人の、私が考えたことを好きに書いているだけのこの場所なら、それができる気がしました。
  考えていくうちに分かったことですが、私が恐れていたのは、この告白によって私という人間に「うつ病の人」というなにかのフィルターがかかってしまって、それによって友人を緩やかに失うのではないか、ということでした。大げさな考えですが、誰だって面倒や得体の知れないものは遠ざけたいだろうし、なにより知ったことで以前の私と以後の私とが別人に見えてしまうのではないだろうか、と思ったのです。
  実際、読んだ人がうつ病に抱いているイメージの中身次第で、そういうことも起こりうるのかな、とは思います。それも仕方ないこととして、これを書きながら、ふと、それでもやっぱり誰かに嫌われたりするのはかなしい。全員に好かれたいと思っていた頃もあって、それは確実に自分の首を絞める考え方だったからやめたけど、やっぱりできることなら誰とだって仲良くしたくて、どうしたってさびしいままだな、と思いました。