祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

『幕が上がる』感想後編

感想後半。

  合宿の際に、「東京」で「演劇」を続ける道が、小劇場の舞台に立つ先輩の姿を通して、さおりたちに示される。そしてそれは、楽しいばかりでないことが、久しぶりのさおりたちの顔を見て思わずうつむき、涙ぐむ先輩からも十分示唆される。吉岡先生は言う。
「大学行って、バイトして、稽古通って、いっぱいいるんだよ、そんな人が、この街には。それこそ、星の数ほど。いま、君たちもその一員。そう考えるとどう?少しは心強い?」
別れの手紙に先生は綴る。
「その時点で、私の気持ちはもうどうかしてしまっていたのでしょう」「そのオーデションは本当に楽しかった。一流のスタッフ、一流の出演者、その中に混ざって一緒に何かを作って行くことが、私にはたまらない喜びでした。そして私が選ばれました。私は、お願いしますと答えていました。やはり私は、教師ではなく、役者でした。」「相談した母は、泣き崩れて反対しました。私は母を裏切り、皆さんを裏切り、それでもなお、演劇の道を進もうとしています。でも今は、それしか考えられません。」
結局、吉岡先生は、どこまでも、演劇に取りつかれたままであったのだ。「人生の責任まで取れない」と吉岡先生が言うように、演劇との出会いは、人生すら狂わせる。
そう、高校演劇の先にはサークルで、劇団で、養成所で…様々な道で演劇を続ける方法が開かれている。「幕が上がる」のひとつの特徴として、高校演劇をテーマにしつつ、その先にあるものも指し示していることが挙げられる。人生と演劇とをともに歩む人がこの世界には沢山いる。決して平坦な道のりではないけれど。そして、吉岡先生は、さおりは、その世界へ飛び込むのだ。

  吉岡先生との突然の別れを受け、考えに考えた末、さおりは、部員たちに向かって、静かに語り出す。その内容は、脚本のなかに語らずとも存在するテーマを、いまのさおりにしか捉えられないものを見事に映し出している。
「なんなんだろうね、この、不安、感? でね、思ったの。今日の授業中に。私たちは、舞台の上でならどこまでも行ける。想像するだけなら無限だよ。でもねえ、でもわたしたちは、どこにも辿り着けないっていうか…私たちが歩いたぶんだけ、いや、私達より何倍も何十倍も速く、宇宙とか世界とかも広がってて、どんなに遠くに来たつもりでも、そこはやっぱり、どこでもないどこかでしかないんだなって。辿り着けないんだ、宇宙の果てには。それが不安ってことなんだなって。私たちのことだなって。そう思いました。……」
さおりの台詞は、部員たちへの決意表明へと繋がる。そのシーンもとても好きだけど、この、さおりが自分の言葉で脚本の内容を語る言葉が大好きなので、その部分を特に引用した。わたしはいつこの、ヒリヒリするような不安を、さみしさを、失ったかな、それともまだ抱えているかな。
わたしが演劇を好きでい続ける理由は、演劇が、身体と台詞で、言葉では語りえぬものを、言葉にしては零れてしまうものを表すことのできる、その力にある。そのような語りたいもの、言い換えればテーマをきちんと持つ演劇は強い。みんなでそれを共有して同じ方を向いて表現していけば、伝える力はなお強くなる。高校生の生々しい感情を、言葉にできないものをなんとか言葉にして、みんなに伝えて、そうして共有する作業。さおりは、この場面において、演出家の大切な仕事を成し遂げている。

「負ければそこで終わり。そんなことはわかってる。ごめんなさい、わがままなのはわかってる。でも、お願い。」 

「神様、もう一度だけ。もう一度だけ私たちにチャンスを」

「神様、お願い」
さおりがもう一度だけチャンスを、と願うように、高校演劇では、勝てば勝つほど、上演のできる回数は増える(大会の枠内で、という意味では)。もっとこの公演をやりたい。そう思うなら、勝たなきゃいけない。でも、さおりのなかではいつのまにか、この部分に関して転換が起きていると思う。勝負に勝ちたいわけではなくて、ただ純粋に、このメンバーで、もっと遠くへ行きたい。演劇がしたい。その思いだけがあって、勝敗は後についてくる。
  後輩である明美ちゃんに一対一で演出をつけているときにも、二人の会話はふと、その思いを示す。
「正直怖い。大会とか、なくていいのにね。あ、これみんなには内緒ね。こうやって何かに向かってずっと歩いてるだけでいい。どっかに辿り着いたら、そこで終わっちゃうかもしれないでしょ。」
「私も似たようなこと考えます。このまま時間が過ぎれば、さおさんがいなくなる日は絶対くる。残酷です。部活って、いつか必ずやめなきゃいけない。時間は止められないんです。この本にも書いてありますよね。カンパネルラが死んで、でもジョバンニは生きてて、ジョバンニだけは、生きていかなきゃいけなくて。それって、生き死にだけの話じゃなくて、私たちみんながそうで。」

  夏菜子ちゃんの国立競技場での挨拶はもう伝説だけれども、「笑顔の天下」のキーワードが出てくる前の部分も私はすごく好きで、初めて読んだ時から印象に残っている。以下、引用。
こうやって、国立でライブをするのも、国立でライブがしたいっていうだけじゃなくて、たくさんの人に私たちのライブを観て笑顔になってほしいっていう思いで、大きな会場でやりたいなあって思ってます。私たちは大きな会場でやりたいから、やってるわけじゃないんです。会場をゴールにしてたら、大きな会場でやったらそれで終わりみたいになっちゃうけど、私たちは、みんなの笑顔が見たくて、それにくっついてきて、大きな会場でやりたいっていう感じで……

  この二つの考え方は、重なり合うところがあると思う。
  結局、演劇がしたいのだ。このメンバーで。いつまでも、どこまでも。そのためには勝つ必要がある。でも、勝つために演劇をしているわけではない。
  「幕が上がる」において、部活をテーマにした作品特有の、相手との勝負を前面に出した描写がないのは、そういうことなんだと思う。勝つためじゃなくて、舞台をひとつひとつ積み重ねていったさきにある未来を見たくて。いまここにしかないものをほんの少しだけ伸ばして、神様。

  大会前最後の練習を終え、曇り空をみんなで見上げるシーン。わたしはここで、どうしても思い出すある漫画の台詞がある。
感想の前編でも最後に紹介した、『演劇部五分前』より、演劇部での合宿の夜、まさに同じようにみんなで窓の外の光を見つめながら、ひとりが呟く台詞。
「多分この先も辛いこととかうまくいかないこととかたくさんあって けどそういう時 こういう思い出を少しずつ消費しながら生きてくんだろうね」
同じ高校演劇をテーマにした作品で、同じ空を見上げての場面だからどうしてもオーバーラップするというのもあるのだけど、それだけではなく、今このときがあまりにもかけがえのない一瞬であること、これからの長い人生を経てもなおキラキラし続ける思い出であり続けること、も共通点であるように思う。それをほんの少しのスパイスとともに表現するなら、後者の、「思い出を消費」という言葉になるだろう。人生はこの先も長くて、なにが待っているか分からなくて、それでもこの瞬間があまりに大切。部活に懸命な者にこそ訪れる祝福。

  ラストシーン。
「緞帳スタンバイ、5秒前、4、3、2、スタート」
そして、「幕が上がる」。暗くなる客席。光に溢れてゆく舞台。明るい舞台に飛び出す役者たち。
そう、舞台から見た客席って暗いんです。この、本当は舞台に立っているものだけがみる景色をラストに持ってくるということ。この画は、舞台の上がどこよりなによりきらめきで溢れていて、みんなの一瞬が、永遠が、そこにあることを表していると思う。さおりは言う。

「先生、私をここまで連れて来てくれて、本当にありがとうございました。私はここから、宇宙の果てを目指します。」
そう。宇宙の果てだって、舞台に載せてみせる。それが演劇。