祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

散り散り

たぶん私はまだ、本当に二度と立ち上がれない、みたいな経験はこれまでしてきていないので、そういう赤子のような状態でふわふわ生きているままのやばい甘ったれの考えることでしかないんですけどつらかったこととか、時期とか(定義は曖昧にします)に対して、そこから立ち直る、とか乗り越える、とか色々と言葉はありますけど、どうなんだろう、私はそんな大仰なことではなく、ただふと日々のなか忘れている時間が増えていく、くらいの塩梅の話じゃないのかな、と思っていて
だから、日常生活はだんだんと取り戻せるし、さらに進めば見た目にはふつうになるのかもしれないけど
振り返ったときに自分のかかとはまだ全然崖にかかったままなんですよね
何度も落ちるうちに受け身とか応急処置とかはうまくなるけど、崖自体は消えないし、振り返ったら落ちると分かってても後ろ側から声が聞こえる日もある、ほんの少しのきっかけで
そういう人が思ってるよりはたくさんいると思って私は勝手に静かに繋がりを感じることがあります


そんな崖自体見たことないよ、とかなんで落ちちゃうんだろうね、とかそういう言葉はほんとに聞きたくないな、と思うんですけど、たぶん見えているものの違いでしかないので
「見えているものの違い」これすごく便利で私はだいたいの怒りをこの言葉で落ち着けているけどでもたまに、じゃあなんでこっちばっかり踏まれてる気分なのかな、とは思う。
こっちとかあっちとか、そもそも自分の考えの限界だな、建設的なやり方ではないな、とも思うのだけど。