祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

近況

  ブログを書かないで放置したままそろそろ一年経ってしまいそうで、とりあえず気楽に書けるものから、と思い特に意味はなく近況報告をします。これまでブログに書いてきたようなことは相変わらず考えたり怒ったりしているのですが、なんだかちょっとさすがにそれはタガが外れてるだろ、とびっくりし呆れ果ててしまうようなニュースも多くて、疲れてしまっているのは否めません。よくないことと思いつつ、精神衛生のためにチラ見で済ませることも多いです。 
  うつの方ですが、前々回のブログ(http://cutnailstoodeep.hatenablog.com/entry/2018/03/12/124719)を書いてから少しして、多少のきっかけを経て、実は良い方に向かいつつあります。良いことがあってもそれが確たるものか信用するのに時間がかかる方なのと、今まで散々体調の波に振り回されてきたのもあって、いやいやよくなってもまた悪くなるでしょ、と思ってきましたが、それでもここ半年ほど連続して落ち着いているので、そう言ってもよいかなと判断しました。こんなこと言ってまたすぐ悪くなるかも分からんけどね、と予防線を張りつつ。
  良くなってもまだ、3日に一回は「本来働くべき立場なのになまけていて全てに申し訳が立たない」みたいな気持ちにはなりますが、そこから一足飛びに「なので生きてる価値がない」とは思わず、「いやでも生きているほうが大事」と軌道修正できるようになったので、大きな進歩です。
  ここ何年かの経験から、人は追い詰められると「もうどうしようもないから、すべて終わりにするしかない」みたいな気持ちになることもあるというのがよくよく分かりました。絶望的な、もう救いなど絶対にないという気持ちをいまでも容易に思い出せます。だからなのか、ニュースを見ていて「そんなに追い詰められる前に助けを求めたり自分でなんとかできなかったの?」みたいな自己責任でしょ的意見を見ると苦しくなりますし、人がめちゃくちゃ精神的に追い詰められる系の話はフィクション/ノンフィクション問わずあまり見ることができません。別にいまさらもっと優しくあれよ世界、などとは思いません。しかし、言葉を選ばずに私なりに言うと、「そういう状態」の人間はあらゆるパフォーマンスも生活の質も悪く、判断もできずしたとしても誤りが多く、そうしたなかで唯一の光に見えてしまうのが「自分で自分を終わらせられる可能性」だったりしてもうメチャメチャなので、そういうことはもっと知られていてもいいのに、とは感じてしまいます。
  最近はそういう感じで、一度開いた感受性の蓋はなかなか閉じず、ニュースでも映画でもすぐ泣くようになってしまい不便ではあります。うつの人はよく「発症前と後では寛解したとしても同じ人間には戻れない」と言います。分かる気はする。一度ある種の淵をのぞいた後ではもうその淵の存在を忘れて生きることはできない。けれど、まあ別に、そういう自分も今のところ嫌いではないのでオッケーです。
  あと軽めの話をすると、好きなミュージカルを体調が良くなってから久しぶりに見たら、うつの時に見た100倍面白くてビビりました。べ、便利〜(?)