祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

散り散り

たぶん私はまだ、本当に二度と立ち上がれない、みたいな経験はこれまでしてきていないので、そういう赤子のような状態でふわふわ生きているままのやばい甘ったれの考えることでしかないんですけどつらかったこととか、時期とか(定義は曖昧にします)に対して、そこから立ち直る、とか乗り越える、とか色々と言葉はありますけど、どうなんだろう、私はそんな大仰なことではなく、ただふと日々のなか忘れている時間が増えていく、くらいの塩梅の話じゃないのかな、と思っていて
だから、日常生活はだんだんと取り戻せるし、さらに進めば見た目にはふつうになるのかもしれないけど
振り返ったときに自分のかかとはまだ全然崖にかかったままなんですよね
何度も落ちるうちに受け身とか応急処置とかはうまくなるけど、崖自体は消えないし、振り返ったら落ちると分かってても後ろ側から声が聞こえる日もある、ほんの少しのきっかけで
そういう人が思ってるよりはたくさんいると思って私は勝手に静かに繋がりを感じることがあります


そんな崖自体見たことないよ、とかなんで落ちちゃうんだろうね、とかそういう言葉はほんとに聞きたくないな、と思うんですけど、たぶん見えているものの違いでしかないので
「見えているものの違い」これすごく便利で私はだいたいの怒りをこの言葉で落ち着けているけどでもたまに、じゃあなんでこっちばっかり踏まれてる気分なのかな、とは思う。
こっちとかあっちとか、そもそも自分の考えの限界だな、建設的なやり方ではないな、とも思うのだけど。

 

 

毛布を奪うな

朝、このツイート(https://twitter.com/3h4m1/status/1186821269221564416?s=21)
とnoteの文章を読んで、ああ、と思って、最近考えていたようなことを書きました。書いてみて、これは本当は色々参照しながら間違いのないよう腰を据えて書かないといけないものだと気付いたのですが、とはいえ勢いがないと多分書ききれないので、一旦置きます。気が向いたら何か足すかもしれません。

 

 


  理想論でしかないけれど、私はずっと、漠然とした言い方だけど、助ける人と助けない人の間の「線を引く」ことへの抵抗感を抱えている。それは半分は義憤めいたものだがもう半分は自分可愛さのようなものだ。線が一度引かれたならばやがてその線が自分や自分の大切な人たちの上に引かれ切り捨て枠に入れられるのだろうという半ば確信のようなものがある。私は現在社会のお荷物枠で、それはまあ自分のことだからいいとしても、私の周りには年齢や病気やその他諸々、なにかしらの弱さを抱えながら生きている人がたくさんいる。その人達を大切に思う気持ち、せめて平穏でしあわせな日々を送ってほしいという願いがわたしの中に強くある限り、マイノリティ、とか弱者、とか、そういう話題に対して完全に冷静な、客観的な話し方をできる日は来ないのかもしれない。

  線を一度引いたなら、その線はだんだんと動いて、より多くの人を「向こう側」即ち助けなくてもいい人、のほうへ追いやっていくことだろう。線をはじめに引いた人はそんなこととは気づかないしその線がゆっくり位置を変えていくことにも気付けないのだろうけど。(と思っていたけどもうとっくに線は引かれているね、こうしてのっぴきならない状況へとなし崩しでなだれ込むのだね。と最近は思っている。)
 
  先日友人と、ゆるく福祉の話などをしていて、何度か出てきたのが「ライナスの毛布を奪わないでほしい」という言葉だった。その場の思いつきで発したワードだったけど、後から考えても自分のなかではしっくりきている。大人になってもライナスにとっての毛布と同じような、かけがえなく大切な存在を持つことがある。本人にとってどれだけ大切でも、他の人から見ればそれはガラクタに見えたり、大切にしているということはわかっても優先度が高いものに見えなかったりするらしい。だから度々、「〇〇のほうが大切でしょう」と、手放すこと、諦めることを有形無形に要求される。だけど、その人にとって大切な存在を、世間的には価値が低いからといって手放させたり適当に扱ったり、それによる心の痛みを大したことがないと言い放ったり、そうしたことを必要なことだからと飲み込むことがどうしてもできない。
  あるいは、これはあくまで思いつきだけど、社会、経済、生産性、といった観点からは価値が認められないものを後生大事にしている姿、それがどうしようもなく贅沢に見えて、ゆえに苛立ちを誘うものなのかもしれないな。そんな弱く儚いものにリソースを割くなんてバカだ、と叫びたくなるのかもしれない。そんな余裕は(私に/あなたにも/この社会には/世間が、etc)無いのだと、そのあなたの行動に使われているのは一体誰のお金なの、など「現実を突きつける」ことでなにか自分の気持ちが慰められるのかもしれない。
  どのような人でも無条件に保障される権利がある、というようなことを、せめてタテマエとしては守られている世の中ならばどんなにか生きやすいだろうと思うけれどどうもそうではない。それでも、社会がどう進もうとも、個人が個人を大切に思う気持ちは(状況により隠すことはあれど)捨てられるものではないだろう、とも思う。

  NHK津久井やまゆり園の事件を受けて進めているプロジェクトに 「19のいのち」というWebサイトがある。メインに「亡くなった19人の方々」というテーマのページがあり、「19人の方々のご家族や関わりのあった方から寄せられた思い出やエピソードを1人ずつ紹介しています」と説明が添えられている。ひとりひとりのページを開くと、ご家族、施設の職員の方々、他の入所者のご家族などがその方について語る文章が並ぶ。読むうちに、ひとりひとりの語り手が、大切なたったひとりを亡くされたのだということが、どんどん胸に迫ってきて、どうしても独りでに涙が止まらなくなる。ともに過ごしたり、暮らしたり、生活をともにしたり、そうしたことで積み重ねられてきたやりとりを通して、単なる障害者とか患者とかそういう属性の話は遠くへ、ただそのひとりをそのひとだからかけがえなく大切に思う気持ちだけが残っていくような、そういう瞬間というのがきっとあるのだと思う。もちろん、たくさん負担もあるし、綺麗事じゃ全然無いだろうし、何を言うんだという感じだけど、ただずっと与えるだけ、お世話するだけで暮らしているわけでは多分なくて、もたらされるものもあって、たしかにやりとりは成立していたのではないか? それが、語られるエピソードに感じられる。

  だからこそ、自分にとってそう見えるからあの人たちは意思疎通ができない、そういう人達には生きる意味がないなんて、負担なだけだなんて、決めつけるのはあまりにも傲慢だ。奪われたのは誰かにとってかけがえのない誰かだったのに、そのことを見ずに数や資源のように語る人たちも同じ。

    誰も切り捨てられないであってほしい、というのは、そういう「自分にとって、世の中にとって価値が無さそうだから生きている意味もなさそうだよね」みたいな他人への謎の上から目線ジャッジへの強い抵抗の意でもある。あなたにとってそう見えたとしてもその人は誰かにとってはかけがえのない人であるかもしれないし、もちろんそうでなくても一向に構わないし、あなたには見えないだけのものがたくさんあるし、生きてていいかどうかなんてことは誰にも決められない。綺麗事でも譲れない。そこをないがしろにしたら、線はどんどん向こう側のひとを増やしていくと思うから。

王の不在に寄せて

  祖父の介護計画書の「生活の目標」には、「手伝ってもらって家での暮らしを続けたい。」のあとにいつも「妻は自分が守る。」と書いてあった。それを見かけるたびに、砂利を噛んだような居心地悪さを感じた。寝たきりで、自分ではほとんど何もできないのに暮らしへのこだわりは強くて、ベッドの上の王のようだった祖父。他に人がいない時には同じ部屋で暮らす祖母へ用を言いつけることも多かったが、既に認知症の程度が進んだ祖母にとって祖父の言うことは難しく、ふたり喧嘩のようになってその大声に家族が飛んで様子を見に行くことも度々あった。寝ている祖母を些細なことで起こして寝不足にさせたり、うまくできない彼女に怒ったり、そうした態度を見ていたからなにが「妻は自分で守る」なのか、自分では何もできない上に祖母を困らせてばかりなのに、と思うことが多かった。 
  祖母は自分の話を多くしないけれど、祖父の家へ嫁いできて、祖父方の親戚たちと同居しながらこどもを育て、そうしたなかで家の軋轢にずいぶん苦労したような話は聞くともなしに聞いていた。祖父は気のいい人で情にあつい反面そうしていいと自分で判断した人間には話を聞かず激昂して相手を封じるようなところがあった。そして私の見る限り、「嫁」であるところの祖母や母はその対象で、「息子」である父はそうではなく、そして「孫」の私と妹は、なんだか分類に困っているような感じだった。私と妹の前でも癇癪は起こすけれど、一応話は聞いてくれるし、そのうちに困ったように笑いながらなんとか納めてくれることが多かった。「ふたりに言われてはかなわない」というような斜めに下がった眉を何度も見た。あの表情は忘れられない。
  祖父母は我が家との二世帯住宅の片方にふたりで暮らしていた。祖母に認知症の症状が出てからは祖父が祖母の世話をするようになり、そこにヘルパーさんや母が手助けに入る形で介護はスタートしたのだった。それからしばらくして祖父が突然寝たきりになってしまい、頼んでいた介護サービスは祖父中心になり、祖父と祖母の世話する-されるの関係も逆転した。そういう順番でことが運んだから、祖父は自分は身体は動かないけれど頭はしっかりしているわけで自分が家の指揮を取らねばならない、何より病のなかにある祖母を自分が守らないといけない、そう思っていたのだと思う。
  老老介護というけれどまさにそれで、ふたりは、身体はまだ動くけれど言われたことが分からない祖母と、身体は動かないけれど指示は出せる祖父とで、不完全に凹凸が合致してしまっていて、目を離すとふたりでとんでもないことをしていそうな危うさがあった。何もしないと決めてしまって全部こちらへ任せてくれたならいっそ大変でも安心だったかもしれないけれど、ふたりには自分のことは自分でなんとかしたいプライドがあったし、そうやって突っ張りあって引っ張りあってなんとかふたりで立っているような、そういう姿を何年か見てきた。


  春先に突然祖父が亡くなってからずっと、祖母はひとりで立っていたのではないのだと、祖父の不在を思い知らされ続けている。
隣のベッドで寝ているだけ、ただそれだけ。時折呼びつけたり、うまくできないと怒鳴ったり、ひとつひとつ見ればまるでマイナスなことばかりだし、もう祖母も歳なのにそんなことしないでよと何度も思った。でも、そうやって同じ部屋にいつもいて、たまに会話して、緊張や苛立ちであってもやりとりしあって、そういう存在は祖母にとって必要だったのだ。ある面から見れば危なっかしくてやめてほしいことでしかなかったけど、世話する相手がいるってことは祖母にとって大切だった。
  大往生、と皆に言われる祖父の死を今更どうこう悔やむことはできないのだけど、こうなる前にもっとふたりの関係の機微に気付けたらよかった、とは思う。分かっているつもりでも分かっていないことだらけだった。というか、本当のところはふたりにしかわからない、ということを何度も腹の底から理解しなおしている。何十年も連れ添って、いいことも悪いこともあり尽くして、歳をとって、最後に見えているもの。一回の人生をまだ浅いとこまでしかきていない私に分かるわけないのに、妙に聡く見透かし把握したつもりでいた自分を恥じる。分かったつもりでいてしまったとこがあるなあ、と、祖父の写真を大切だと言って何度も飾ったりしまったりしている祖母を見てなんとなく、分かってなかったなあ、と思い直す毎日だ。

切なさと生活

   介護の話をします、といっても自分の身の回りの、家の中の、半径3m圏内の話でしかありません。こういう解決もなく重いだけの話題はなかなか話に出すのに勇気が要るのですが、一時期介護で家がにっちもさっちものときに友人へそのことについて話したら、思ったよりもずっときちんと聞いてもらえたことがあり感謝しているのもあって、もしかしたら自分で思うよりはためらわなくていいのかな、とも思っています。あと、ヤングケアラーの記事を読んだりして、そもそもの環境や制度の面での不備はもちろんなんですけど特に若い子だと友達にもそういう話はしづらいっていう悩みは大きいなーと、まあ全然一石も投じられはしませんしそう思っているだけなんですけど。前置き終わり。


  『彼氏彼女の事情』というマンガで「年寄りと暮らすのはなにか切ない」みたいなセリフがあって、その一言を何度も何度も思い出す。本当によく言い表したもので、同居する祖父母が介護を必要とする状態になってしばらく経ついま、喜びもつらさもあるけれど一番多いのは「切なさ」だ。それも、きっかけは個々にあれどももっと全体としての、なんとなしの切なさ、みたいなもの。いままでの色々がゆっくりと失われていく姿を見ていなければならない。できないこと、分からないことが増えてもうそれが戻ってくることはない。それでも二人はそれなりに暮らしてはいるし、私だって悲観ばかりしているわけではないけれど、それとは別に、なんかこれは本質としてすごく切ない営みだな、と思うタイミングが多い。
  数年前から寝たきりになった父方の祖父と、身体は元気な祖母と、二人ともゆっくりと認知症が進んでいて、状況は刻々と変化し困りごとも日々変わる。都度、母と外部の様々なサービスの方々とで対応してきたけれど、長く先の見えない生活に疲弊は否めない。私は介護についてなにか言えるほどきちんと関わってなどいないのだけど、それでも何かにつけ考えてしまうことがたくさんある。
  最近、在宅での介護の限界がどこなのか分からないことが悩みの一因だと気付いた。ここから先はもう無理ってはっきり線が引けたならそこで決断できるかもしれないけれど、もっと頑張っている人もいるのに、まだできることはあるのに、「できない」って思うのはわがままではない?もう少し頑張れるのでは?と、自分に対して思ってしまう。特に、終わりまで自分の家で過ごしたいと言う祖父に対し、もうそれはこの状況では無理だと、家族の誰も言い出せずにいる。自分がもう少しやれば……、と思ったり、これ以上は無理だと思ったり、どうしてできないんだと自分で思ったり、心は乱れる。
  自責の念など持つべきではないし「つらいなら逃げてもいい」それは絶対そうなんだけど、別の面で、つらさの大元は老いや病であり誰も悪くないために憎む先もないことや、その選択によって私が(言葉にするのは難しくまた単に家族愛などというものでもないのだが、少なくとも)大切には思っている人の余生のありかたが変わってしまうこと、そういった、情の絡まりのようなものが自分を苦しめる。
  他人の話として現在の我が家の状況を聞いたなら、私は即「それはもう限界だよ、入れる施設探しなよ、罪悪感とか全然無くていいよ」みたいに答えると思う。実際そうなんだろうし、話を聞いてもらった友人にも似たアドバイスをもらった。近い将来そうなるだろうとも思う。それでも、罪悪感が消えたりすっきりきっぱり決断できたりなんてことはないだろう。他人事と自分の身とでは全然違うんだって改めて思い知らされた。情だけは、どうにも切ったり捨てたりできない。抱えて生きていくんだとして、やがて薄れゆくとしても、ああ人生地に足つけて歩くのって骨が折れますね、という感じがしている。

 

近況

  ブログを書かないで放置したままそろそろ一年経ってしまいそうで、とりあえず気楽に書けるものから、と思い特に意味はなく近況報告をします。これまでブログに書いてきたようなことは相変わらず考えたり怒ったりしているのですが、なんだかちょっとさすがにそれはタガが外れてるだろ、とびっくりし呆れ果ててしまうようなニュースも多くて、疲れてしまっているのは否めません。よくないことと思いつつ、精神衛生のためにチラ見で済ませることも多いです。 
  うつの方ですが、前々回のブログ(http://cutnailstoodeep.hatenablog.com/entry/2018/03/12/124719)を書いてから少しして、多少のきっかけを経て、実は良い方に向かいつつあります。良いことがあってもそれが確たるものか信用するのに時間がかかる方なのと、今まで散々体調の波に振り回されてきたのもあって、いやいやよくなってもまた悪くなるでしょ、と思ってきましたが、それでもここ半年ほど連続して落ち着いているので、そう言ってもよいかなと判断しました。こんなこと言ってまたすぐ悪くなるかも分からんけどね、と予防線を張りつつ。
  良くなってもまだ、3日に一回は「本来働くべき立場なのになまけていて全てに申し訳が立たない」みたいな気持ちにはなりますが、そこから一足飛びに「なので生きてる価値がない」とは思わず、「いやでも生きているほうが大事」と軌道修正できるようになったので、大きな進歩です。
  ここ何年かの経験から、人は追い詰められると「もうどうしようもないから、すべて終わりにするしかない」みたいな気持ちになることもあるというのがよくよく分かりました。絶望的な、もう救いなど絶対にないという気持ちをいまでも容易に思い出せます。だからなのか、ニュースを見ていて「そんなに追い詰められる前に助けを求めたり自分でなんとかできなかったの?」みたいな自己責任でしょ的意見を見ると苦しくなりますし、人がめちゃくちゃ精神的に追い詰められる系の話はフィクション/ノンフィクション問わずあまり見ることができません。別にいまさらもっと優しくあれよ世界、などとは思いません。しかし、言葉を選ばずに私なりに言うと、「そういう状態」の人間はあらゆるパフォーマンスも生活の質も悪く、判断もできずしたとしても誤りが多く、そうしたなかで唯一の光に見えてしまうのが「自分で自分を終わらせられる可能性」だったりしてもうメチャメチャなので、そういうことはもっと知られていてもいいのに、とは感じてしまいます。
  最近はそういう感じで、一度開いた感受性の蓋はなかなか閉じず、ニュースでも映画でもすぐ泣くようになってしまい不便ではあります。うつの人はよく「発症前と後では寛解したとしても同じ人間には戻れない」と言います。分かる気はする。一度ある種の淵をのぞいた後ではもうその淵の存在を忘れて生きることはできない。けれど、まあ別に、そういう自分も今のところ嫌いではないのでオッケーです。
  あと軽めの話をすると、好きなミュージカルを体調が良くなってから久しぶりに見たら、うつの時に見た100倍面白くてビビりました。べ、便利〜(?)

水を得た魚

  『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきた。水好きにはたまらない映画だった。そこで、少し水の話をする。
  一年ほど前、住んでいる所の市民体育館で開かれている水泳講習会に通っていた時期があった。もともと海や川で水遊びをするのが好きだったので、泳げるようになったらもっと楽しいのではないかと思ってのことだった。
  コース説明に「水に慣れること」から始めると書いてあった通り、プールサイドに腰掛けて脚を水に浸してみるところからスタートして、ゆっくりと全身をプールに沈め、そして私たちがはじめに習ったのは、水には重さがあるということだった。
「水面を掌で押してみてください。力がいるでしょう。水には重さがあり、水の中にいるとき身体の動きには抵抗がかかります。この抵抗を、いかに少なくし、いかに水のなかで疲れない動きをするか、それが目指す泳ぎです。」
実際に、習った型で泳ぐと自己流の泳ぎとはなにもかもが違って、動きが理にかなっていると確かに感じられた。とにかく楽で、しかも水中での推進力が違うのだ。陸と水中ではどうも物理が全然違う。水中には水中の居方がある。そんなことをぼんやりと思った。
  全8回の教室を通じて何人かのインストラクターさんにお世話になったが、プールサイドではじめましてと挨拶を受けるとき、毎回感動するのはその身体の美しさだった。長年泳いできた方々の身体は、水中で抵抗を受け得る余計なものがすべて削ぎ落とされた、無駄のないラインを描いていた。スポーツ毎に筋肉のつき方が違うと話には聞いていたが、それにしてもまるで泳ぎの精神が具現化したかのようなその身体つき。そして、水に入って自在に泳ぐ姿はもはや魚のようだった。
  そうした経験を通して、わたしは、人は水の中では生きられない、しかし水と仲良くすることはできるということを学んだ。どうも泳ぐというのはかなり示唆に富む行為だな!などと思いつつ。
  あるとき先生がふと全体に向けて呟いた、印象に残っている言葉がある。
「いまは教室だから正しいフォームにこだわって練習しますけれど、実際水の中ではどんなふうでもいいんです。溺れなければ。とにかく、溺れないこと。水の中で、余裕を持って、浮いて呼吸する。これさえできていればよいのよ。」
それは、長年水に入って生きてきた先生からの、祝福の言葉だ、と思った。たぶんこれから先も泳ぐときには思い出す、わたしたちのこれからの水中人生への祝福だ!と。
  結局水泳はたいして上達しなかったけれど、いまでも機会を見つけては、時々泳ぎに行く。というより、水に触れに行く。水の中にいるのはまことに楽しい。いつまでもつかっていたくなる。名残惜しいきもちでプールサイドに上がると、ザバリと全身から水が流れ落ちて、それとともにがくりと身体が重くなる。重力。ああわたしはやはり陸の生き物なのだとすこし寂しくなる。生まれ変わるなら、次は水の生き物がいいな、と思っている。

うつの話

  うつ病の診断を受けてから、2年ほど経ちます。はっきりしたきっかけや原因は分からないままです。早く治る人は3ヶ月、なんて聞くけれど私の場合はそうはいかなくて、ずっと状態の良い時と悪い時とを繰り返していて、全体としてみれば回復傾向にはあるけれど、パキッと治る見込みはまだ立っていません。そもそもパキッと治る病気ではないし。

  このことをブログに書きたいと思ってからは、様々な考えがぐるぐると頭を巡る日々でした。私は自分の病気のことを、家族を除いてはほんの数人にしか打ち明けてきませんでした。私の友人のどれくらいがこのブログを読んでくれているのか分かりませんが、ここに書くということは、少なくとも何人かにはこの事実が届くということで、それは恐ろしいように思えました。「大切なことは大切な人にだけ言えばいい」という、私のポリシーにも反します。それに、わざわざ言うことになんの意味があるのかとも思いました。重たい話の告白なんて、誰も聞きたくないことをする意味とは?
  それでも、2年が経っていま、私はそろそろ、重荷を下ろしたくもなっています。留年の理由、就職しない(できない)でいる理由、それらをはっきりと言わなくても、私の友人たちは私を受け入れてくれています。それはとてもありがたいことです。ただ、もうはっきり理由を話してもよいのではないか、と思い始めたのです。
  ひとつには、治る見込みの遠いことがあります。この先もしばらくは私はこの状態と付き合わなければならないようです。病はすでに私と馴染んできてもいます。そうしたときに、うまく言えないのですが、診断当初に比べ、隠さなければならないという意識が薄れてきたのです。
  もうひとつには、それと関連して、このブログに文章を少しずつでも書き続けていくのなら、自分のこととして、この話を避けては通れないのではないかと感じたことがあります。なにかを書くなら、まずはここからなんじゃないかと。別に、これからうつの話ばかり書くとは思わないのですが。
  どちらもとても感覚的な話で、やっぱり私はこの衝動をうまく説明できません。ただ、なんとなく、書くと決めたのです。具体的な読者を想定したりしていない、ごく個人の、私が考えたことを好きに書いているだけのこの場所なら、それができる気がしました。
  考えていくうちに分かったことですが、私が恐れていたのは、この告白によって私という人間に「うつ病の人」というなにかのフィルターがかかってしまって、それによって友人を緩やかに失うのではないか、ということでした。大げさな考えですが、誰だって面倒や得体の知れないものは遠ざけたいだろうし、なにより知ったことで以前の私と以後の私とが別人に見えてしまうのではないだろうか、と思ったのです。
  実際、読んだ人がうつ病に抱いているイメージの中身次第で、そういうことも起こりうるのかな、とは思います。それも仕方ないこととして、これを書きながら、ふと、それでもやっぱり誰かに嫌われたりするのはかなしい。全員に好かれたいと思っていた頃もあって、それは確実に自分の首を絞める考え方だったからやめたけど、やっぱりできることなら誰とだって仲良くしたくて、どうしたってさびしいままだな、と思いました。