祈りにも似て

生きることは深爪の痛みに似ています

水を得た魚

  『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきた。水好きにはたまらない映画だった。そこで、少し水の話をする。
  一年ほど前、住んでいる所の市民体育館で開かれている水泳講習会に通っていた時期があった。もともと海や川で水遊びをするのが好きだったので、泳げるようになったらもっと楽しいのではないかと思ってのことだった。
  コース説明に「水に慣れること」から始めると書いてあった通り、プールサイドに腰掛けて脚を水に浸してみるところからスタートして、ゆっくりと全身をプールに沈め、そして私たちがはじめに習ったのは、水には重さがあるということだった。
「水面を掌で押してみてください。力がいるでしょう。水には重さがあり、水の中にいるとき身体の動きには抵抗がかかります。この抵抗を、いかに少なくし、いかに水のなかで疲れない動きをするか、それが目指す泳ぎです。」
実際に、習った型で泳ぐと自己流の泳ぎとはなにもかもが違って、動きが理にかなっていると確かに感じられた。とにかく楽で、しかも水中での推進力が違うのだ。陸と水中ではどうも物理が全然違う。水中には水中の居方がある。そんなことをぼんやりと思った。
  全8回の教室を通じて何人かのインストラクターさんにお世話になったが、プールサイドではじめましてと挨拶を受けるとき、毎回感動するのはその身体の美しさだった。長年泳いできた方々の身体は、水中で抵抗を受け得る余計なものがすべて削ぎ落とされた、無駄のないラインを描いていた。スポーツ毎に筋肉のつき方が違うと話には聞いていたが、それにしてもまるで泳ぎの精神が具現化したかのようなその身体つき。そして、水に入って自在に泳ぐ姿はもはや魚のようだった。
  そうした経験を通して、わたしは、人は水の中では生きられない、しかし水と仲良くすることはできるということを学んだ。どうも泳ぐというのはかなり示唆に富む行為だな!などと思いつつ。
  あるとき先生がふと全体に向けて呟いた、印象に残っている言葉がある。
「いまは教室だから正しいフォームにこだわって練習しますけれど、実際水の中ではどんなふうでもいいんです。溺れなければ。とにかく、溺れないこと。水の中で、余裕を持って、浮いて呼吸する。これさえできていればよいのよ。」
それは、長年水に入って生きてきた先生からの、祝福の言葉だ、と思った。たぶんこれから先も泳ぐときには思い出す、わたしたちのこれからの水中人生への祝福だ!と。
  結局水泳はたいして上達しなかったけれど、いまでも機会を見つけては、時々泳ぎに行く。というより、水に触れに行く。水の中にいるのはまことに楽しい。いつまでもつかっていたくなる。名残惜しいきもちでプールサイドに上がると、ザバリと全身から水が流れ落ちて、それとともにがくりと身体が重くなる。重力。ああわたしはやはり陸の生き物なのだとすこし寂しくなる。生まれ変わるなら、次は水の生き物がいいな、と思っている。